虹を追いかけて走る少年。
その背中をいつまでも見つめ続け、そして追い続けた少年。
今、もしもその呪縛、いや、本人はいたって呪縛ではないと思っていても、呪縛であるとして。
それが解かれたとき、少年は、果たして何を見ることになるのだろうか。
失望?憎しみ?哀しみ?
世界の全てに対する、敵対?
答えなんて見えるわけがない。端から期待してもいない。
誰も、閉ざされた心の闇に蔓延る、その病原菌に抗う術など元々持たないのだから。


 伐られた樹から、また出てくる若い芽。
次から、次へ。本体がある限り、連綿と続く、生まれては死に、終わりの始まり、始まりの終わりを繰り返す生命。
少年は、右腕を見た。
そこだけの空白。地面がそのまま見える空白。
天を仰ぎ見る。どうして僕の腕は生えてこないんだろう、と。
そうしてまた地面を見つめる。
アリの行列。
その小さくても生き続ける彼らが憎らしくなって、その行列を踏み潰す。
「…」
念入りに、念入りに。
土に還れと願いながら、踏みにじり続ける。
自分より弱い、自分より小さな、その生命の行列を。
「…」
この腕が合体ロボみたいなおもちゃだったら、誰かの腕を嵌めることが出来るのだろうか。
振ってみても、ジョイントを探してみても、見つかるわけがなければ繋がるわけがない。
繋がるわけがないというのは、試してみたのだ。
外れてしまった、彼の腕『だった』モノで。
彼は、憎かった。
自分をこんなにしたものが、ではない。
こんなになった、自分の腕が。


---ソウシテ、ボクラハ、マタ歩キ始メル---


 翻る旗。赤い旗。
仰々しい行進の行列。諸手を上げる市民。
時勢が時勢だというのに、なんと平和なことだろう。
まだ、彼らの国が強いと、ラジオや新聞は騒ぎ立てる。
それなのに、駅では腕や足を、彼のように失くしてしまった兵隊を大勢見る。
彼らはそれでも勇ましくて、駅に降り立つなり、勲章を胸に着けてもらう。
傷が男の勲章?バカみたい。
失ったとして、それは二度と帰ってこないというのに。それをそんな金属のカタマリに委ねられるのだろうか。


---1942年、ドイツ、ハノーファー---


 戦争が始まり、彼らの周りは変わってしまった。
それまでも、だいぶ変わってしまったことばかりだったというのに。
金属は全部供出で持っていかれた。お気に入りだった金属製のコーヒーカップ…彼が父親に駄々をこねて譲り受けた、
第一次世界大戦モノの記念すべき一品も、見逃すことなく持っていかれた。今は、鉄砲の弾となり、誰かの体を射抜いたことだろう。
としたら彼は、敵兵を殺した勇敢な弾を生み出した男だ。彼に何かが帰ってくるわけではないが。
「…」
母親は、熱狂的なまでのナチ党員だった。
赤い旗、イチゴやトマトよりも赤い旗の理想に共感し、全てを破壊するこの戦争を諸手を挙げて歓迎した。
父親は、国防軍の将校だった。典型的なプロイセン軍人でもなければ、名を残すことのないような将校。
赤い旗、敵と蛮族の血と同じくらい赤い旗の未来に共感できず、かといって共感しなければ付いていけない、むしろ疎まれると知り、
日和見主義のようにその理想に従い、それまでの軍服に鉤十字を掴む鷲のマークをつける。
彼らが、国家徽章と呼ぶそのしるしは、この戦争を始めたバカな男が自らデザインをした、というのだ。
ただ、本当はその側近で優秀な建築家、設計士がいて、彼がデザインした、とも言われている。
どっちでもいい、そんなこと。
家族は狂ってしまった。
腕をなくしては、国家にご奉公が出来ない!そんな子はいらない!母はキチガイのように騒ぎ立てた。
父はそれを宥めようとしたが、母がヒステリーを起こすため、ついにそれに共感し、一緒になって可哀想な息子を責めた。
たった一人の兄、フランス戦線に従軍し、既にこの世にない彼は、弟のそんな姿を、遺影から見てどう思っただろうか。
少なくとも、彼を庇える人間は、そこにはいなかった。
駅に止まっている、軍用列車。
何気なく近くの小石を、投げる。
憲兵が飛んでくる。
次に、鉄拳が飛んでくる。
また貴様か。いい加減に懲りろ、と。
この憲兵は知っているのだ。彼が、腕を失くしたことを。
そして、家族に忌み嫌われ、ここにいることも。
だから、殴ることはしても、それだけ。
それを知っているから、少年もまた、この本当は心優しい憲兵がいるときだけしか、石を投げない。
叱って欲しいのかもしれない。何も言わない、構ってもくれない、そんな両親の代わりに。


 ホームを濡らす、雨。
それは、彼の体すらもずぶ濡れにしてしまう勢いだった。
「おい、いい加減帰らんと痛い目に遭わすぞ」
憲兵は拳を上げて言うが、その目は少しばかり笑っていた。
あざ笑っていても、本当に微笑ましく思ってくれていても、少年にはそんなもの、どうでもよかった。
構ってくれるなら、それでよかった。
「俺は近々、東部に異動になるんだ。イワンどもを皆殺しの旅さ。今後は俺がいないから、石も投げられんだろう」
そんなこと聞いてもいないのに、語りかけてくる憲兵。
彼も気付いていたようだ。石を投げるのが自分の当番の時間だけなのだと。
「腕がなければ戦えんだろうが、それでもここで一日バカをしているより、もっと建設的なことがあるだろう?若いんだからな」
俺はもう40なのに、こんな老兵、いつまでこき使うつもりなんだろうな、この国は。
そう言いながら、いつものように彼の横に置いている帽子に、飴玉を3つ入れて、憲兵は去っていった。
砂糖で作る飴玉は、とても貴重なもので、最近内地でもめっきり見なくなった。
普通の商店で売っているものは配給制。しかも代用砂糖を使うからとても甘く、臭いも独特で、吐き気しか催さない。
この軍用の飴玉は、件の憲兵がくれるものだ。
子ども扱いしているのか、それとも彼をどこかの浮浪児だと憐れんでいるのか。
40歳くらいなら、彼にも息子や娘がいて可笑しくない。その息子や娘にあげればいいのに。
彼にその息子や娘を重ねてでもいるのだろうか。
彼がナチ党員の息子で、国防軍将校の息子だと知ったら、件の憲兵曹長はどう思うだろうか。
かと言って、案外気にかけてくれないかもしれない。この国には、ナチ党員が多すぎるから。国防軍の出身者なんて多いから。
より哀れに思われるだろう。この右腕のせいで、家族に見放された可哀想な男だと。

 遠くから、軍歌が聞こえる。
荒野に咲く一輪の小花 その名はエーリカ
彼の父も良く歌っていた兵隊ソングだ。それは、故郷にいるエーリカという恋人と、小花のエーリカを重ね合わせ、
その花に群れるミツバチたちを、恋人エーリカの芳しき色香に誘われてきた男達に重ねた、皮肉だと思っていた。
…そのときまでは。
「…雨、降っているわ」
「…」
不意に、濡れるのが収まった気がした。
兵隊達の歌は遠ざかる。雨の中でも行進をして、一通り歩いたら官舎に戻るというルートだということは、この駅で
世間を見ていれば大体覚えられることだ。独特のグースステップはしていない。ただ、靴の踵に鉄の枠が嵌めてあるから、
この雨の中でもその音がイヤに耳に残る。
それを切り裂いて、彼の視界に入ったのは。
理想的ゲルマン民族と言われる、金髪碧眼の、まるで人形のような少女。
差し出される手は、傘とともに。
「私は濡れても構わないけど、あなたはどう?」
「…」
どうと言われて、どう答えていいか分からなくて。
気付けば、そこで歯車は、回り始めていた。


---1942年、ドイツ、ニーダーザクセン州ハノーファー---
---雨ノ中デ出会ッタ、二人ノ末路ハ---


【登場人物紹介】

・カール・ルドルファー
本編の主人公。ヒトラー・ユーゲントに所属していたが、ある日の休日、事故に遭い右腕を失う。
父母ともにナチズムの信奉者。事故とはいえ後天的に障害者となってしまった彼に、両親は冷たかった。
いつしかユーゲントとも疎遠になり、空虚な毎日を駅前で過ごしていたある日、彼は出会う。温かい陽だまりのような人に。
兄がいたが、1940年5月のフランス進攻でB軍集団に属し戦死。砲兵だった。

・エーリカ・シュミット
本編のヒロイン。父はドイツ国防軍の将官。ナチズムに対して嫌悪感すら感じ、ナチに協力的な母親といつも喧嘩をしていた。
それがとても苦痛で、それを紛らわすためにある日家を飛び出して、雨の中を傘を差しながら散歩をしていた。
小さな頃、父がまだナチズムに染まる前、見せてくれたアメリカの演劇の写真、その中にいたヒロインのように。
そして出逢ったのは、氷のような寂しさを向ける、孤独な少年だった。
名家の御令嬢でありながら、それを鼻にかけないところに、カールは惹かれていく。
それは、まだ戦争が遠くにあって、爆撃がまだ、夢のまた夢だったころ。

父に勘当された兄がいる。兄フランツは武装親衛隊に所属し、東部戦線で戦車兵として従軍している。
勘当された理由は多くは語られないが、父が毛嫌いするナチ党員になったため、とも。


あとがき

一次創作は基本書きたくなったときに書くことにして、進行速度は相当テキトーです。
個人的に歴史モノってあんまり書きたくないんですよね。結局ナチスを賛美すれば叩かれるし、ナチスを否定すれば、
同時にホロコースト否定派とか、いろんな勢力を敵に回しちゃいますし。
相坂個人としてはナチスの思想は共感できなくもないです。結局ナチスがなければ第一次大戦後10年で、それまでの
ドイツより遥かに法制度も充実した第三帝国は生まれなかったわけですし。だけどヒトラーは戦争に走り、そのドイツの栄光を
落日に追いやってしまった。ナチスは合理的な思想を持った組織で、それに感情的というヒトラーのスパイスが加わって、
国家は戦争に突き進む。全体主義は一時隆盛であっても、やがて滅ぶ宿命にあったのだから。
予定では何編かに分け、最終的にはドイツの降伏とその後まで描けたらいいな、なんて思っていたりします。
腕を失くした少年と、心を失くした少女。お互いが交じり合う延長線、そのベクトルの刻まれる方向と宿命。
時代に捻じ曲げられ、狂わされる愛。なんか、少女漫画みたいな展開ですね。相坂でした。

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