ふと想うことがある。
僕は果たして、生き急いでいるのか。それとも、ただ生きることが下手糞なだけなのか。
ブレーキを踏めばそこで止まれるけど、そこで止まって何をするのか。
ハンドルを握りながら、ふと、そんなことを想ってみる。


アンニュイ理樹くんSS『空のマニ車』


 エンジンの音が静か過ぎて、走っている気分になれない。たまにエアスポイラーが風を切る音と、
納車してすぐのときにコンビニの縁石に乗り上げて割ってしまったスポイラーのスキマに風が入り、
不気味な音が不協和音になって運転席に響く以外は、本当に止まってしまった空間のようだ。
クラッチを踏み、アクセルを連動して踏み、加速帯に入ればまたクラッチを踏みギアを入れ替える。
繰り返し、繰り返し。それがまるで当たり前であるかのように。
「暑いなあ」
外はまだ7月だと言うのに猛暑。ん、待てよ。7月だから暑いんじゃないか?
なんてもっともらしいことを無意識に想う。運転に集中しろよと。
でもさっき車に乗ったときは、それこそ冷めた味噌汁が温かくなるんじゃないか、って思えるくらいの温度。
普通にやったら腐ってお腹壊すけどね。そしてボンネットは目玉焼きが出来るくらい。
車で朝ごはんが作れるね、と笑いながら言ったら彼女が『一人でお腹壊してなさいよ』と呆れていた。
その彼女を気遣い、エンジンをかけてすぐ、エアコンをマックスにしたらあまりの暑さにテンパって暖房のボタンを押してしまい、
それに気付かなかった僕たちは車に乗り、あまりの暑さに悶絶しかかった。無論、彼女から悪魔の痛撃をいただく。
「ホントに死ぬかと思ったわ。今度したら一日ビール1杯の刑1週間」
「えぇっ」
それは多少勘弁願いたい。
ここ最近仕事が忙しくて、楽しみと言えばお酒だけなのだから。前は、パチンコもよく行ってたけど、最近は行けてない。
「…」
苦笑いしながら咥えた煙草は、横の彼女に掻っ攫われる。
「煙草はダメ。さっき先生からもそう言われたでしょ?」
「あ、うん、ごめん。ついクセで」
「クセでも許されないコトだってあるの。今回は不問に伏すけど、次やったら一日ビール一滴の刑1ヶ月よ」
「ぐぅ…」
あぁ、コレだ。彼女は僕がもう煙草もパチンコも出来ない、いやむしろ行けないということを知っているから、お仕置きに酒を使う気だ。
でもそれも案外面白いかもしれない。几帳面な彼女がスポイトでビールを吸いだしてグラスに移すシーンを想像してちょっと微笑ましく思う。
学生時代の実験かなにかに逆戻りしたような、そんな懐かしい感じに。
やがて信号が赤になったので、ブレーキを踏みながら、何だかんだで自分のお腹を愛おしそうに撫でる彼女を横目で捉えながら、僕もふと、
ここ最近の自分を省みた上で、幸せの形について考えてみた。


 さっきまでいたのは、産婦人科。
嫌な吐き気を覚えた彼女---佳奈多が僕を8時くらいに叩き起こしたのだ。
ちょうど僕のために朝食を作ってくれている時の出来事に、只ならぬ不安と『もしかして…』という期待を抱いた、というのは彼女の弁。
昨日まで棚卸で、今日は昼から出勤していいと言われていた僕は、直属上長である店長に電話を入れて、同居人が風邪を引きました、
豚インフルの可能性もあるので、2人で病院行ってきます。もしかしたら遅れるかも、と言っておいた。
店長も相当心配して『気遣えよ』と言って下さったので一応は安心だ。
そして普通の総合病院に行こうとしたところ、佳奈多がそれを制した。
『産婦人科』
『えっ』
最初それがどういう意味か分からなかった。
ほらアレだ。コンビニでせっかく今日は佳奈多が大好きなam.pmに行こうとしたら『今日はあなたに合わせる』と言われて、
am.pmのすぐ目の前で反対車線にあるファミマに入るくらいの、そう、鼻っ柱へし折られる感じの気分。
混み合ってる時間帯に反対車線に右折で入ろうとしたらかなり顰蹙買うんだよね。特にこんな小さな街だ。余程市街地でもない限り、
車線は追い越し禁止のオレンジの帯が横にでーんと構えている。そりゃ相当顰蹙買うわけだ。かと言って対向車が止まってくれるかというと
過度な期待はしないほうがいい。最近の若い子もオバサンドライバーも自己中が多いから。気が触れてるな。なんて。
ともあれ、そんな病院の情報に疎い僕は、佳奈多の携帯に入っている助手席ナビで言われるがままに運転。
気が付いたらもう僕は佳奈多といっしょに先生の前に座っていて『おめでとうございます、お父さんですよ』と言われていた。
え、いつの間に検査終わったの?って勢いで。
いっしょに暮らし始めてから知ったけど、佳奈多は案外ズボラだ。
妊娠検査薬?なにそれ食えるの?的な発想でそういうのに疎かったし、ピルだって、飲んでいるか分からなかった。
2人で暮らし始めた時点で、そういう展開を期待していたのか、それとも、本当に天からの授かりモノなのか。
まぁ、コンドームすらつけないで毎日危険日安全日考えず膣内出しする僕のほうが100万倍ズボラなんだけどね。
どうしよう。天からの授かりモノじゃなくて、シモからの授かりモノなんてご先祖様に下げる頭が。うん、黙れよ僕。
でもご先祖様もそれをしたから、今の僕らがあるわけで。

 ご先祖様といえば、僕は佳奈多の実家の事情をよく知らない。
あまり話してくれないし、今回の件だってそうだ。正式にご両親に頭を下げに行きたい、って言ったら。
『いいわよ、別に。2人とももう子どもじゃない。自分の意志で子どもを授かって、自分の意志で産むんだから』
いや、授かったのはシモの意志なんだけどね。いい加減死ねよ僕。
ともあれ、作っちゃったから責任取る形になるけど、次の休みにでも、籍を入れに市役所に行こうと思う。
会社のみんなビックリするかな。エロゲとコンビニめぐりとパチンコとパソコンくらいしか趣味がない管理職が、ついに結婚。
それも出来ちゃった婚ですよ。パソコンを孕ませたの!?それともパチンコ台!?と凄い剣幕でAVコーナーのアルバイトの
ママさんたちから詰められそうだな。信用ないな、ってつくづく思うよ。
って案外僕多趣味なんだな、と思いながら目の前の信号が青に変わったので、半クラッチ入れて動き出した。


 佳奈多との出会い、というより再会はつい最近だった。
僕は何事もなく、また何の楽しみもなく、楽しみと言えばアキハバラでフィギュアを買いあさり、パソコンの改造をしたりして過ごすくらい。
そんな何の楽しみもない大学生活を終え、今の会社に入り、気が付けば業績良好で2年目で管理職試験をパスして最終候補者にノミネートされ、
気が付いたら管理職なんかやっていた。
そんなある日。他の店から配属替えで僕の勤務する店舗にやってきたのが、佳奈多だった。
相変わらず僕のことを覚えていてくれたのか、あら直枝、と自然に声をかけてくれた。
やぁホイットニー、今日も可愛いね。パンツ何色?と聞いたら強烈な打撃を食らって本当に天国に行きかかったけどさ。
どこでこんな図太い精神を得たのか分からない。でもこれは素直に喜ぶべきことなのだろう。
ともあれ、2人の時間が回りだした。
最初は顔をあわせるたびケンカ、みたいな、そう、良くジャンプとかサンデーでありそうなラブコメマンガの展開だよ。どっかの誰かさんならきっとそれを見て
俺もこんな彼女が欲しい!って言っただろう。そんな展開。
最後には『もっとしっかりしてくださいね、直枝フロア長殿』とすんごいイヤミ言われて、ちょっと凹むこともあったけど。
でも、お互い本気で嫌いあってはいなかったみたいだ。棚卸やその再修正、レジ担当の佳奈多を気遣ったり、逆に営業より作業に入ることが多い僕を佳奈多が
労ったり(半分皮肉交じりだったけどね)しているうちに、お互いを意識し始める。

うん、これなんてエロゲ?

黙れよ、僕。

 そして棚卸後、僕が借りている部屋に集まって宴会、になっていたのだが、ついに現れたのは佳奈多だけ。
全然信用されてないフロア長だな、僕。それとも、みんな気を遣ってくれたのだろうか。むしろ僕は3Pとか5Pでも全然OKなクチなんですけど。
五月蝿いよ、僕。
そんな感じで酒を煽るうちに、凄く距離が近くなって、いつものケンカをして、いつものいがみ合いをして。
じゃれるように佳奈多を押し倒して、そしたら佳奈多が『抱けるもんなら抱いてみなさいよヘタレチ○コ!』ってすんげぇ勢いで大声出すんだもん。
近所の人に聞かれてないか、まぁ防音なんだけどね、そんな心配しつつ彼女を抱いた。
処女だった。えーうそマジー?処女が許されるのは小学生までだよねーって思ったけど、世間一般では童貞より処女のほうが尊ばれる。男女差別はんたーい。
無理して『痛くなんかないわよっ!』と涙目で言ってた彼女の健気さに、僕涙目。ホントエロゲ展開だなぁ、と冷静になりつつ、僕も彼女をパンパンした。
初のエッチで、生ハメ膣内出し。不安そうな顔で出来ちゃったらどうするの…と言った彼女を強く抱き締めたのを覚えてる。
抱き締めながら『話は変わるけどコンビニはやっぱりファミマだよね』と言って。
強烈な正拳突きを待っていたのに佳奈多ったら『え、am.pmでしょ、常識的に考えて』って。もう一気に惚れた。
その日から、僕らの同棲生活が始まった。

 翌日から佳奈多は仕事帰りは僕の部屋に来て、いっしょに遅い晩飯を食べ、いっしょに風呂に入り、いっしょのベッドでギシギシアンアン。
休みになれば今住んでいる部屋から僕の部屋にどんどん荷物を持ってくるようになる。レイアウトでだいぶケンカしたっけ。
最後は僕が妥協するんだ。いつも。ベッドサイドに大きなクマのぬいぐるみ、なんかハウステンボスかどこかに行ったときにクジで当たった記念すべきモノ
らしいけど、それを置きたいってことで軽くケンカ。最後はクマのぬいぐるみじゃなくて、僕を抱き枕にして!そしたら置いていいから!で妥協。
気が付いたら僕と下半身のモノは佳奈多のいい抱き枕になっていました。すげぇ勢いで平和だ。
そんな生活が1年半近く続いたある日、つまり今日、ついに2人にも記念すべき第一子が光☆臨されたわけで。主に下半身のモノからって黙れよ僕。いい加減。


 佳奈多は普段顔に出すタイプじゃないけど、嬉しいということはそれとなく分かる。
さっきからずっと、運転しながら横目で見ているけど、母親になったという部分で、本当に嬉しそうにお腹を撫でているのだから。
「…」
この身体の中に、僕の血を半分、彼女の血を半分受け継いだ生命が宿っている。
儚い、華奢といえば華奢なこの身体。そのお腹が次第に大きくなるのだろう。そのときが凄く楽しみだ。
絶対ブタの鼻を付けて、かなぶー☆とか呼んでやる。うん、僕きんもーっ☆
「運転ばっかりしてないで、ちゃんと赤ちゃんの名前、考えておいてよ」
「am.pm」
「私にコンビニの名前を当て字でつけるようなDQNな親になれっていうの?」
いいじゃん、最近亜奈瑠ちゃんとか倭魏那ちゃんとか珍宝くんとか流行ってるんだから。これマジで。
まぁ、直枝am.pmってのもアリなんだけどね。二人目を直枝ファミマにすればバランスも取れるし。何のバランスなんだか。
待てよ、ファミマなら辛うじて当て字に出来なくないかな?
「何考えてるのよ…」
読まれてたか。てへっ☆
「絶対禁止よ。せっかく生まれてくる生命なのに、生まれてきたことを後悔して自殺しちゃうような名前付けたら即離婚だから」
まぁそのほうがパチンコもタバコもやり放題だしなぁ、なんて考えてすぐに意識改革。
僕にはもう、佳奈多しかいないのだから。
「…生まれてきたことを悔やんでしまうような、そんな人生だけは歩ませたくないのよ、この子には」
私のように。エアコンの風に遮られるように囁くその言葉を、違和感なく受け入れられる僕がいた。


 でも不思議な話だ。
つい最近まで、どこにでもいるような普通の女の顔、仕事中は恐怖感すら覚える女の顔だったのに、気付けば母親の顔。
さっき病院を出る前に店長に電話をしておいた。すんません、ウソつきましたって凄い剣幕で。
ビックリした店長が事情を話してみろ!って言ったから『はい、二木を孕ませちまいました。さっきまで産婦人科にいました☆』と
告げると、すんげぇ勢いで祝福された。おめでとう!これでお前もついに人の親だな!って。
すぐさまメールが、同僚のチーフフロア長と家電フロア長、部下の数名から入ってくる。おめでとうございます、って。
さっきから携帯なりっぱなしでウザかったから電源OFFにしてくれたわ!まったく、妊娠くらいで騒がしい連中だ。
何かに付けて騒ぎたいんだろう。今閑散期で売り場も暇だし。飲み会のダシにされるのは多少カンベンだけど。
「でもこの子は凄いわね。まだ男の子か女の子か分からないのに、もう祝福されてる」
「そうだね」
「そして、それをお腹に宿した私、それを守っていくあなた。自然に祝福されてるのよね…」
「…」
連綿と続くいのちのサイクル。
途中で止まる事だってあるし、それに悔いが残らないわけがない。
皆、悔しさと寂しさ、痛みをこの世のどこかに遺して、現世から退場していく。願わくば、次のセカイで幸せになれることを願って。
そういう意味ではどっかのじいちゃんばあちゃんみたいに大往生、ってのは中々珍しい例なのかもしれない。
この子はきっと、ただの子作りセックスで宿った命じゃない。もしかしたら江戸時代とか明治時代とか、そんな時代に何かの後悔を遺して
このセカイを去らなければならなくなった人が輪廻転生した姿なんじゃないか、と考えて、ふと笑みが零れる。
「何よ」
「ううん、なんでも」
「…」
まったく、あなたって人は。
呆れたように言う佳奈多。男は秘密があるほうが輝けるのさ。あ、それは女の子か。
「その笑みの理由は、もうすぐ妻になる私にも話せないこと?」
「ううん。いつか話すよ。今話したらバカじゃないの?で終わりそうなことだから」
「信頼されてないのね」
「ぐぅ…」
佳奈多のこの言葉に弱い自分もまた真実だ。
同居し始めた頃から、よく言われていた。
帰りが遅い佳奈多。もちろん残業だって知ってた。だけどいっしょに会社を出たのに、遅い帰りの彼女。
嫌な想像ばかりが頭を駆け巡る。どこかで僕以外の男と…。
帰ってきた佳奈多の胸に飛び込み、思いっきり大泣きしてやったこともあったなぁ。
凄い剣幕で泣きついたから彼女もあたふたするしかなかったけど、支離滅裂に事情を話した僕に微笑みながら。
『私って、信頼できない?』
佳奈多は可愛いし、無愛想だけどたまに見せる笑顔は誰もがぶっ倒れるくらいの凶器だ。
あ、今のはオフレコか出来たら編集で切ってね。
だから、素で怖かったのに、佳奈多ってば。本当に凄いよ、佳奈多は。
本気で好きになって、束縛するようになって、逆に束縛されるようになって。荒縄的な意味で。
煙草を吸わせてもらえない、パチンコも禁止ってのは、そういう部分で軽い罪なのだろう。
これから生まれてくるいのちのことを考えてやれば。
「さぁて、これから出産費用とかいろいろ入用になるし、無駄遣いは禁止よ」
「貯金もあるし、両親の遺産もあるから大丈夫だよ」
「ダメよ。この子にマトモな教育を受けさせるならお金は絶対いるの。無駄なお金は使わず貯金!」
「うぐぅ」
言われてみれば、人を育てていくって色々いるんだなぁ。なんて。
僕に出来るか分からないけど、やってみなきゃ分からないこと。それなら、僕はこれからも彼女を。
「佳奈多」
「ん?」
「…手」
「?」
シフトノブに乗せている手を顎で指す。そして。
「乗せて、佳奈多の手」
「…えぇ」
何をする気かしら、と思いながらも乗せてくる佳奈多。そして急発進っ☆
「きゃっ!」
「ここから先は佳奈多の意志半分、僕の意志半分で運転することになるからね。行き先はイコール佳奈多も行きたい場所、OK?」
「…良く分からないわよ」
ブツブツと悪態を垂れる可愛い奥様を放置して、とりあえず家とは違う方向に向かう。

 黒のスイフト。
同居を始めた頃に買った。5年ローンの中々のシロモノだ。
初めて買う車、彼女の意見を聞きながら買ったけど、気が付いたらなぜかMT車。理由を聞いたらそのほうが直枝にお似合いよ、ってね。
言われてみれば、確かに運転の楽しみはMTのほうが大きいし、某相坂さんもMTらしいから悪くない気がする。
そんな大きな買い物をした後だけど、さっそくファミリーカーもそろそろ考えなきゃなぁ、なんて。
でもきっと許してもらえないから、当分これを大事に乗り回そう。そう心に決めて。
「直枝」
「…なに、佳奈多」
「どこに行くかくらい教えなさいよ」
「まず佳奈多が僕を理樹って呼んでからね」
「むぅ」
直枝のクセに生意気よ!って言ってくる。何そのPSPのソフトに在りそうな名前。
もとより彼女はいつもそうだ。僕を呼ぶときは直枝か、それともあなた。
セックスの時だってそうだ。直枝っ、直枝っ!って言いながら果てる。いい加減愛し合う2人って気分がしなくなっていたところだった。
「呼んで欲しいの?そんなに」
「そりゃそうだよ。僕は夫で君は妻。妻を名前で呼んでるのに妻は夫を名前で呼んでくれないって寂しいよ」
「夫婦別姓みたいでいいじゃない」
「…子どもの前でも、そう呼ぶの?」
「むぅ」
やった、今度は僕が圧倒中っ!パネェっスよ理樹さん!て言ってくれたら相坂さんがおっぱいをうpするようでうわなにするんだあいさかやめれ@くぁwせ
「こ、子どもの前では、そ、そうっ、パパ!パパって呼ぶわ!」
「んじゃ、佳奈多はママだね。ね、ママ?」
「ぐっ…」
やった。勝った。
「…ぱ、パパ」
「うぼらぁっ!」
僕、吐血。
意識がぶっ飛びそうになりながら、僕は佳奈多が手を乗せるシフトノブをいじる。目的地、そこにたどり着くために。


 「…」
どんどん山道に入っていく。少しばかり心配だ。最近来てなかったからなぁ。
「ねぇ、ここ」
「…」
「次、右」
「うん」
佳奈多も目的地が分かったのか、すぐにナビを始めてくれる。
彼女が助手席にいるだけで、僕は随分落ち着ける。そうだ、コレが、誰かの何かになっている、って気分なのだ。

 たどり着いたのは、共同墓地。
「ここ…」
「ほら、最近まで忙しくて来れてなかったでしょ?」
「…」
目に透明なしずくを浮かべ、ホント、あなたって人は、と悪態を吐く。
ママほどじゃないよ。というと何故かぐーぱんちが飛んできた。痛い、地味に痛い。
手を取り、墓地の上のほうへ。上る階段が、まるで僕たちの人生のようだった。
だとしたら、僕たちの今いるところは、何段目くらいなんだろう。まだまだ、先の長い人生だ。下のほうなんだろう。
でも、この上には、それよりもはるかに前に、死んだ人たちがいる。泣きながら、亡くなった人がいる。
「佳奈多」
「…何よ」
「つらかったら言ってね」
「何よ急に優しくなって。前は…なんでもないわ」
「うんうん」
ドコまでも納得いかない彼女を連れて昇った階段。その先には。

 『三枝 葉留佳』
金箔でそれだけ、寂しく書かれた墓標。
もうすぐ彼女が死んで、10年になろうとしている。
10年間、それは思えばあっという間の出来事だった。人類が宇宙に進出したり、車が空を飛ぶとか、そんな事はなかったけど。
でもそれは、世間一般のあっという間だ。僕と佳奈多にとっては、その10年間は長い贖罪の時間だった。
僕がもっと強ければ。私がもっと強ければ。あの子には、あの子たちには。悲しい思いをさせずに済んだのに。
彼女が僕以外の人間と深いつながりを持たなかったのも、そういう理由があったのだろう。
僕が、そうであったように。
心のどこかでは、否定していた。深い付き合い、交わりを。
最初は傷を舐めあうために、無意識で一緒にいたのかもしれない。
だけど、今ははっきりと言える。傷の舐めあいじゃない。本当に、本当に、彼女を…。
「直枝…?」
「…」
後ろから佳奈多を抱き締め、お腹を撫でる。男に比べて頼りない女の子の背中。そこに顔を埋めて。
「…」
「直枝…理樹」
「佳奈多…」
「理樹…」
10年の時間を経て、母親になった佳奈多。葉留佳さんは見ていてくれるだろうか。
「卑怯者の姉が母親になって、本当はもっと幸せになれるはずの葉留佳が、先に天国に行ってしまったことが、悔しい」
「佳奈多だって、失うために、失わせるために生まれてきたわけじゃないよ」
「でも…」
「あぁもうっ」
いつまでもウジウジする彼女をもう一度強く抱き締める。
「理樹…」
「僕は、尊敬する兄貴分と、友達をたくさん失った。でも笑ってる。両親だってもういない」
「…」
「でも、佳奈多さえ生きていてくれれば、佳奈多さえそばにいてくれれば、これからもずっと笑っていられる気がする」
「…」
だから、悲しい顔はしないで。
どうすれば時が戻るんだろう。そんな風に考えたことがあった。
でも、昔どこかのバンドが歌っていた気がする。時が戻るためにすべてを捨てたとしても、罪だけが増えていくと。
ならコレは僕の終わりなき贖罪なのだろう。死んだ者たちの代わりに生きて、ジジイになって、笑いながら死ね、という。
時は戻らないけど、戻りたいと一瞬でも願ったから、今の僕がある。生き続ける宿命を背負った、この僕が。
「佳奈多、生きていこう?いっしょに年取ろう?葉留佳さんがいいなぁ、って指を咥えて天国から見てくれるように」
「…でも」
問答はもはや不要。
耳たぶを甘噛みしながら、さらにお腹を撫でる。
「あんっ…」
「決めた。この子の名前は『はるか』」
「えっ…」
予測はしていたのだろうが、恐らくまさかそんな陳腐な理由で葉留佳さんの名前を使うとは思わなかったのだろう。
油断してたね、佳奈多。
「恭介でも、鈴でもない。他の誰でもない、はるか」
「…」
振り返り、僕に平手一発。それは極めて手加減をしたのか、本気の佳奈多の平手を知る僕から言えば、さして痛くない。
「それは、葉留佳への侮辱?葉留佳を救えなかった私への侮蔑と受け止めていいのかしら?だとしたらこの子は堕胎するわ!」
「…」
「何よ、知ったようなこと言って、私を苦しめて!」
「…」
ぱしっ。僕もお返しをしてやる。
ただ違うのは、片手に力を込めた平手ではなく、両手で佳奈多の頬を挟みこむ平手だということ。
「えっ…」
そしてそのまま頬を引っ張る。
「ひ、ひひゃい…」
「佳奈多。死んだ人が戻ることがないのなら、僕たちはその分を生きるしかない」
「…」
「なのに、そんな僕たちのところに来てくれたこの子を消そうとするなら、それこそ葉留佳さんへの侮辱だよ」
「…」

 クサいことを言うかもしれない。
だけど、実際そうなんだ。この今日という一日は、昨日死んで逝った人たちが、あれほど生きたいと願った明日。
両親が死んだとき、幼すぎた僕にはそれが分からず、自暴自棄になって衰弱していくだけだった。
恭介たちが死んだときは、そうでもなかった。もう、強く生きていくと誓って歩き出していたのだから。
そして今、葉留佳さんの墓標に向かい合って、感じたこと。
佳奈多と葉留佳さんが姉妹だってことは、同居を始めてから知った。むしろ彼女から教えてくれた。
それよりもっと前に気付いてあげることが出来たならば、消え逝く運命の葉留佳さんはきっと救われた。
だというのに、僕は。だから。
「本音言うとね、佳奈多が妊娠したって先生から聞いたとき、何が何だかさっぱりだったんだ」
「でしょうね。ハトが豆鉄砲食らった顔してたもの」
「うん。だけど、車の中とか、さっきからの仕草を見ていて、どんどん実感が湧いてきて」
ふと、未来のことを考えてしまった。
この子が大きくなったら、どんな子に育つだろうか。
まだ男か女かも分からない。だけどあの葉留佳さんの血だって少しは混じっている子だ。間違いない。あの子と同じに育つ。
「葉留佳さんが見れなかった未来、それを託されたんだよ。僕たちと、この子は」
「クサいこと言ってるって自覚、ある?」
「あるよ。誰よりもクサいこと言ってるかもしれない。そこらのリーマンよりクサいこと言ってるって自信あるよ」
託された未来だと思えば、この宿命はそんなに重く感じない。
いつかこの子が大きくなったとき、この子と自分が笑っていられるか。今はまだそれだけでいいから。
「託された思いを、2代目はるかに委ねて、次、また次の世代へと思いを受け継いでいく。それが、葉留佳さんと、仲間達への手向け」
「僕はそう信じているから、本当は自殺したいくらい辛かったあの日々を乗り越え、ここにいる」
「理樹…」
佳奈多の手が、僕の頬を覆って。そして。
柔らかい唇が、僕の唇に触れた。


 やっぱり車の中は静かだ。
トランスミッターでも積んでiPodを大音量で聞きたいって野望はあるけど、当分は無駄遣いも出来ないしね。
でも、もうしばらく。もうしばらくしたら。
「これから、にぎやかになるね」
「何が?」
「ほら、生まれたらさ、この静かな車の中も元気な声でいっぱいになるよね、って」
「…そうでしょうね」
夕日が海の方向に吸い込まれていく。
時々思う。願っても叶わないことが多すぎるんだ、生きることって。
だけど、それを承知の上で、僕らはマニ車を回し続ける。輪廻転生を祈りながら、くるくる、くるくると。
もしかしたら明日、何かがあってこの輪が途切れてしまうとしても、僕は、生きていく。
切れればまたつなげればいい。繋がらないなら結べばいい。結んでダメならその時考えればいい。
相変わらず佳奈多は、お腹を撫でている。本当に、我が子が愛しいのだろう。
それを横目に、僕はクラッチを繋ぎ、発進する。
車輪も回る。くるくる回る。
僕らが乗る車輪は、もう二度と来ることはないであろう墓地を遠ざける。
一瞬、夏の幻が、葉留佳さんの姿を見せた、そんな気がした。ブレーキを軽く踏んで、手を振る。
それは、やっぱり幻だったのだろう。佳奈多は驚いていた。
「…」
「…コンビニ、行く?」
「そうね…。そろそろ、セブンイレブンも好きになろうと思うの」
「…職場の近く、セブンしかないもんね」
「そう。だから、好きになっておきたいわ」
「…うんっ」
でも、確かに見えたんだ。葉留佳さんが。ガンバレ、お父さん、お母さん。そう言いながら。

(終わり)


 あとがき。
最初から最後までバカです。コンビニです。
だけど後半クサい台詞連発です。こいつはただのバカ理樹じゃなくて新ジャンルかもしれません。
相坂作品にしては珍しく、佳奈多が不憫な目に遭ってないのが見所、ってところでしょうか。

黒のスイフトは作中でも触れていますが相坂も同じなんですよ、コレが。
もちろんMT。職場の同僚からは女がMTかよっ!って言われてますけど、まぁホラ。そういう人もいるわけですよ。
昔と違ってね。ATよりも運転は楽しいし。ただ面倒なのは否定しません。たまにギア噛まないしね。

しかしまぁ、車とマニ車を重ねてみましたが、気付いてもらえたでしょうか?
マニ車の意味は某専門家気取りが集まるインターネット百科事典で調べてみてください。
輪は輪廻転生。これは仏教やそれに類するものが共有する概念です。
あたしは生憎カトリック教徒なので分からないですけど(身体の復活と永遠の命がテーマだし)、オリエンタルな発想の
輪廻転生のほうが何となく共感できます。同じ身体での甦りより、違うセカイの、違う姿での生まれ変わり。
あたしも大勢死んでますからね。楓とか、親友とか。
そんな彼女らに会いたいと思いますが、それより、生まれ変わって違う姿ですれ違うことのほうが面白そうだし。
『また、いつか会おう』。そう信じて。相坂でした。

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