殺されること、奪われること。
それらに決して理由が無い、とは言い切れないにしても、結果それで哀しむのは別の誰かだ。
さて、その結果キミは何を見る事になるのかな?シン君。


第10話『混沌 -The edge of chaos-』


 小毬と過ごした翌日は、少し眠い目を擦りながら登校した。
今日がたまたま土曜日だったからよかったものの、もしもフルタイムだったとしたら…。
「考えるだけで、おぞましいな」
まだそうやって軽口が叩けるだけ幸せなのだろう。シン自身そう思っている。
その日、香苗は出勤していなかった。
また誰かが騒ぐ。森と同じことをしたのではないか?という憶測も飛び交う。
まさか香苗ちゃんに限って…そういうのは決まって男子だ。
だがシンには、昨日の光景があるから、それをむげに否定出来なかった。
恥部をあらわにして迫る、女教師。
ドラマや漫画やDVDでそういうのを見る機会はあった。
だけど、なぜ自分にそれが起こるのか、まったく分からないシンは、ただ苛立つ。
「なぁ飛鳥、何か知らないか?」
「…さぁね」
それでも、昨日の光景が夢かもしれないとしたら、うかつなことは言えない。
シンは何も知らない素振りでそれらの質問を聞き流す。
「(来ヶ谷が何かを知っているみたいだったな…)」
香苗のこと、香苗がシンを好きになった理由。
それらを知っているのは現段階では来ヶ谷だけなのだろう。
シンは席を立ち、来ヶ谷を探すために校内を動き回ることにする。
「飛鳥?」
制止する級友たち。森時代に比べれば穏やかになった教室の空気も、殺伐を好むシンにとっては
相変わらず居づらい場所でしかなかったのも事実だ。
それに比べれば、来ヶ谷や小毬がいて、バカなことが思いつく世界のほうがよほど彼には温かい。
授業中のリノリウムの廊下に響く、上履きの足音。
聞きなれた音、それすらも環境が変われば新鮮に感じるものなのだろう。
…聞きなれた、環境とはもう違う。
今は居場所があり、誰なりか部室で彼を待っていてくれる。そんな世界。

 しかし、歩行を始めて数分だった。
スッ。また視界がぼやける。ふらつき、そして階段から転がり落ちる。
「いてて…」
ふとした瞬間に起こったトラブル。自身の第一印象は『ダサいな、オレ』。
しかし冷静に考えて、なぜ急に、と思い直す。
確かに最近不摂生も多かったし、サプリメントも飲んでいない。それだけじゃない、
環境の急激な変化が、疲れをもたらしている、きっとそれだけだ。
言い聞かせて立ち上がれば、今度こそ、なにもなく、彼はすんなり動き出せた。
「…」
そうだ、きっと疲れているんだ。今日は帰って寝よう。
心に決めて、また誰も居ない校内を歩き出す。来ヶ谷に、真実を聞こうと。


 来ヶ谷はあっさり見つかった。
いつか、彼女がシンに手を差し伸べた中庭。そこの特設テラス…古びた木箱と椅子、そしてイーゼルがある、
そんな少し異質の空気を放っている場所に。
「おや、そこに居るのはシン君ではないか。なるほどそうかそうか」
勝手に頷く。どうせ大した想像はしていないだろう。
案の定、だった。
「おねーさんとエロいことをしたい、という妄想膨らましながら来たところ悪いが、今日は危ない日なんだ。どうせアレは」
「持ってないし、アンタに使う気はないっ!」
「なるほどシン君はナマ派か。おねーさんを妊娠させようなんて中々の色男め。うむ、いいだろう」
「そういう意味じゃないっ!」
疲れる。やはり来るんじゃなかった。
帰ろうと決めると、身体が動かない。
来ヶ谷に捕まっていた。
「いい機会だ。今日は性教育の授業と洒落込もう。おねーさんが直々に教えてやろう。それはもう手取り足取りしっぽりムフフと」
「離せっ!」
「可愛いぞ、そういうところもな」
「黙れっ!」
ツッコミ専門になってきている自分に少しばかりの嫌悪感を感じながらも、振りほどくことはしない。
それだけ、来ヶ谷も警戒の対象からちょっとずつ、それこそミクロンの歩みでも、変わってきているのだろう。
仲間、というものに。
「してシン君。おおかた別の目的手私に会いに来たんだろう?第一学生で子作りは硬派なシン君には出来ない相談だしな」
うんうん、と満足して頷くが、大きく的外れの回答だ。
「いい加減そこから離れろよ…」
来ヶ谷に誘われるまま、椅子に腰掛ける、その前に椅子を軽く踏む。
…それは、あっさりと壊れた。
「ふむ。察しがいいな、シン少年」
「…」
心底残念そうな来ヶ谷。どうやら椅子に座った瞬間壊れて尻餅、というドジっぷりを見たかったのだろう。
とても残念そうな顔でため息。生憎コンビニ…理樹のようなヘマはしないぞ、と言い張ると。
「…理樹君がそんな目に遭ったとして、キミがなぜそれを知っているんだ?」
来ヶ谷自身、おぼろげながらそう言ったことを仕込んだ気がしないでもない。
だがそれをシンの転入以降したことがない。
だから、シンの、まるでオレは知っているぞと言いたげな発言が気になった。それだけ。
「まぁ、それはどうでもいい。ほら、おねーさんに話してみるといい。まぁ」
大体言いたいことは分かっている、と付け加えて。
それなら、と聞いてみる。
「何で、島津がオレを好きになったか、その理由、知ってんだろ?」
「うむ」
予想通りだったのだろう。頷きながら。
「キミはまだ知らないほうがいいだろう。知って得することなど何も無いからな」
「…」
予想していた通りの答えに、少し腹立たしくなる。
教えてくれるような素振りをしておきながら、これだ。苛立ちから詰め寄る。
「なら最初から言うなよ!人に期待を持たせるだけ持たせてさ!」
「…島津教諭に惚れられたことがそんなに嬉しかったのか?」
「ち、違う!オレの彼女は!」
と、言ってしまった、と思い口を手で覆うがもう遅い。
…ニヤニヤした来ヶ谷が、そこにいるだけだ。
「そうかそうか、小毬君を生涯の伴侶に決めたか。いいぞ、彼女なら健康な子どもも産めるだろう」
「んなっ、なんで小毬なんだよ!」
「やれやれ、キミは素で分からないのか?」
それすらも彼女にはため息で一蹴できるらしい。当たり前じゃないのか?と疑問を投げかける。
「むしろ気付かないほうが鈍感だぞ、シン君。神北女史はキミにゾッコンLOVEだ。これは間違いない」
恋する乙女のオーラすら感じ取れないなんて、女の子を泣かす気か?とケラケラ笑いながら、差し出される缶コーヒー。
「キミの質問に答えられなかった非礼を詫びよう。ほら、飲むといい」
「ん…サンキュ」
小毬に限ってそれはないよ、と言いながらそれを受け取る。
そう、人を勝手に弟扱いする女の子が、自分を好きになるわけが無い、そう言い聞かせて。
受け取るコーヒーは、見事に彼の手を滑り落ち、そして地面に零れる。
「…シン君?」
「…」
また、来たのだ。
あの、ぼやける感覚、視界が一気に悪くなり、狭まり、まるで霧に包まれるかのような感覚に陥り。
「…なんでもない」
「…ふむ」
来ヶ谷は何かに気付いたようだが、口に出さなかった。
それが、シンのためになるのだろう、と判断して。


 「シンくんっ、大丈夫なの!?」
「…いきなりなんだよ」
休み時間。何となく部室で時間を潰すことにすると、血相を変えた小毬が飛び込んできた。
相当息を切らしている彼女は、立ち止まり、深呼吸数回、改めてシンに向き直り。
「ゆいちゃんから聞いたの、シンくんの体調が良くないって!」
「…別に普通だよ」
来ヶ谷が告げ口をしてくれたらしい。相変わらずの身勝手な行動が腹立たしくすら思えてくる。
だから、小毬を突き放す。
「別に、なんでもないよ。オレは普通さ」
「嘘っ。シンくん、肩にアザがあるもん!」
幸い今日は良く晴れていて、部室はいつもより暑かったため、シンは上着を脱いで黒いタンクトップ一枚に
なっていた。そのためだろう、昼前に階段から落っこちたときのアザを小毬に見つかってしまった。
「絶対怪我しない人間なんていないだろ。ただの事故さ」
「それなら尚更心配だよ!シンくん、絶対痛いって言わないもん!だから、何かあったら」
「いい加減にしろよ!」
彼女の優しさがいよいよ鬱陶しくなったシンが机を叩いて立ち上がる。
「アンタ、オレの何なんだよ!彼女でもないくせにさ!」
「っ」
しかし、人はいつだって成長するものだ。
心が成長することは、それまでで絶対考えられなかったことを思いつく。
彼女はシンの腕にしがみつき、そして、打撲の痕にキスをして、手で撫でる。
「ちょ…こま…」
「確かに、今は彼女じゃないかもしれないけど、わたしは」
腕をまるで我が子を包み込む母親のように、優しく。そして。
「それでも、シンくんが大好きだもん。だから」
痛い思い、して欲しくないよ。
少女の悲痛な叫びは嗚咽に変わり、そして。
「…」
前の小毬なら、シンの怒りの前には、口をつぐみ、そして無理に笑顔を作るしか出来なかった。
だが今の小毬は違う。シンにとっての何かでありたい、素直にそう思えるから。
「ね、この後病院に行こう?具合が悪いなら、ちゃんと診てもらおう?」
「そ、そこまでしなくても」
珍しく小毬の強い主張。それでも疲れだと思っているシンにとって、病院にいく必要は感じられず、
むしろ保健室に連れて行ってもらって、適当な理由を付けて休ませて欲しかった。
小毬は小毬で心配していることはよく分かった。ただシンはシンで少し考えるところがあったのだ。
---甘えたら、弱くならないか。
ただそう言った発想が無駄だということは、重々承知していた。小毬がどういう人間かを考えれば。


 結局彼は小毬の必死のお願いと牽引に負け、その身を小毬に委ねた。
小毬は早々に教師に告げると、寮長に許可を得て病院へ行くことに。
『まぁ、確かにそれは心配だし、いいわ、行ってらっしゃい?』
『はいっ』
普通なら早退⇒病院行くために外出、となったら疑われるものなのだが、小毬が普段どんな風に
行動しているのかを垣間見ることが出来た。少なくとも疑われるような素行はまったくないのだろう。
そして堂々と、手を繋いで…というより無理矢理牽引されて病院へ。
「オレ病院嫌いだから」
「それでもわたしは、シンくんが大好きだから」
「関係ないだろ、ソレ」
恐らく来ヶ谷あたりが何かを吹き込んだのだろう、小毬のこの変貌ぶりは。
疑念は深まるが、それで良くしてくれる彼女を不機嫌にするのは得策ではない。
そう判断して、牽引に身を委ねて歩く。
すっかり、秋の色づきの街路樹。
その道を二人で歩きながら、見上げた空は鱗雲。
どこまでも青い空は、無意味に彼らの行く道に蒼い水平線のカーペットを敷いていた。
そして、気の早い落ち葉がそのカーペットに素敵な絵柄をつけている。
「秋だねぇ」
「ババアみたいなこと言うなよ、小毬ばあさん」
「ほぇっ、ひ、酷いよシンくん〜」
唖然とした後、今一度頬を膨らませ明らかな怒りを表現するが、それすら可愛く思える。
繋ぐ手は離さないが、ぷいとそっぽを向く。機嫌を直そうとするが、何も浮かばない。
…そう言えば外出先だから、お菓子で釣る方法もある。
「後でワッフル買ってやるから」
「うぐっ…。し、シンくんが悪い子になった…」
「何ゆえ」
「お姉ちゃんをモノで釣ろうとしてる…」
そしてそれに負けた小毬がいる。
「し、仕方ないから、今日だけ赦してあげるよ」
「…機嫌よさそうに言うなよ」
やれやれ痛い出費だ、と肩をすくめ、たどり着いた先はバス停。
「ちょっと市街地のほうに行くから、この方がいいんだよ〜」
「…」
さぁ早く、と手を伸ばす小毬に、シンは。
「…移動時間を短縮して、診察時間短縮、ひいてはワッフル以外も買ってもらう時間を増やすって魂胆だな?」
「………何のことかな〜?」
バレバレだった。


 市街地に向かうバスに揺られる間も、小毬は手を離さない。
「なぁ」
「…」
「なぁってば!」
「ん〜?」
いい加減離せよ。
率直に言うことも気が引ける。だからオブラートに包んでみる。
「…恥ずかしいだろ」
「ん〜?」
分かるわけがなかった。何をしているか。
バスの中のこの初々しいカップルに、年配の夫婦が微笑ましそうに目線を注ぐ。
あるカップルは、さっきまで喧嘩していたみたいなのに、小毬たちを見て、ふと男のほうから手をつなぎ、
そして、仲直りしていた。
「(小毬って、すごいよな)」
正直にそう思えてしまった。
誰もが温かくなる彼女の『魔法』。
そう思うと自分が置かれている状況もあながち悪くないと思えてきた。
しかし、それを阻害するように、また視界の悪化が起きる。
「…」
だがどうせこれはきっとただの疲れ目で、病院にいけばそれが証明され、小毬も納得して、
もう連れまわしたりしないだろう。そんな期待を抱き、次のバス停での下車に備える。
まるで、最初から用意されたシナリオの上を、歩くように。
そして、そのシナリオの線路は、すでに切り替え機が作動しているのに、気付かずに。


 総合病院は下車後2分という短距離にある。
もともと総合病院前バス停なのだから、遠くだったら極めてムダだが。
「ほら、こっちだよ〜」
「…」
受付に案内する小毬。何回か受診したことがあるのだろうか、とても自然に手続きを行ってくれた。
「慣れてるな」
何となく、聞いてみると。
「最近まで、入院してからね」
「へぇ…」
身体が弱いのか、と一瞬心配になったが。
「バスの転落事故があってね、その時奇跡的に助かって、それでも怪我して、暫くここに入院してたんだ〜」
「…」
それから、退院後も入院している仲間達の見舞いでよく来ていたから。
不思議なものだ。シンが転入してくる前にそんなことが起こっていたなんて。
何があったかなんて、興味がなかった。おぼろげにその話を聞いていたが、それでも、詳しいことは
聞こうとしなかった。なぜ彼らがこんなに結束しているのか、を。
その一部を垣間見れて、何となく、リトルバスターズの一員になれたことを実感するが、
すぐに頭を振ってそれを否定する。
あくまで心地良いから近くに居るだけで、(21)やコンビニや筋肉バカの仲間になったなんて彼のプライドが許さなかった。
 そんな葛藤をしているうちに、こっちだよ、と小児科に案内される。
「…小毬、お前、ワザとやってるなら叩くぞ」
「ふぇ?」
…そこで、小毬も気付く。
「あ、シンくんはお子様ランチ卒業してるもんね」
「…」
殴りたい、と思ったのは初めてだ。
「こ、こっちだよ〜」
「…そっちは肛門科だぞ。ワザとだろ?」
「…ふぇっ」
失敗が相次いで『困りマックス』モードになる小毬。
「ふぇぇっ、困りました、道に迷いましたっ!」
「…足しげく通ってたんじゃないのかよ」
「だって眼科は初めてなんだよ〜」
「…」
じゃあ受付で聞けよ、と素でツッコミを入れるが、お姉さんぶる小毬には無理な要求だったのだろう。
「き、きっとこっちだよ〜」
「…霊安室だけは勘弁してくれよ」
「ふぇぇっ!」
いいから、早く連れて行ってくれ…。
大きなため息とともに、それだけ吐き出した。


 「飛鳥さん〜、飛鳥心さん〜」
「し、シンだよっ!」
『こころ』さんと発音されたのが腹立たしかったのか即座に立ち上がりツッコミを入れる。
「まま〜、こころさん〜」
「いい名前ね」
近くに居た子連れの母親が微笑む。複雑な心境に、とりあえず立ち上がって、診察室へ。
「あぁ、飛鳥、シンくんでいいのかな?」
診察室で待っていたのは、とても恰幅のいい、まるで仏のような微笑の男だった。
本当に医者なのか?と疑いたくなるくらいの、よく手入れされたひげを蓄えている。
「あぁ、すまないね。中東地域に居たときのクセでね。未だに剃れないんだ。剃ったら部族によっては怒るからね」
「…」
何のことだか、とため息をつきながら、名札を見ると、そこには。
『朱鷺戸』の文字が躍っていた。
「…朱鷺戸って、もしかしてアンタ」
「あやちゃんのお父さんですか〜?」
先に言われた。
正解だったらしく、彼も頷く。
「あぁ、そうだよ。その素振りから、どうやらあやがお世話になっているみたいだね」
男は、さらに嬉しそうに微笑んだ。
「あやもいい友達に恵まれたようで安心したよ。日本での学生生活なんてなにぶん小学生以来だからね」
「そうなんですか〜」
その事情はシンも以前あやの口から直接聞いていたから、小毬よりもすぐにその意味を理解する。
そして、そんな前置きよりこんな消毒液臭い病院から早く抜け出したい一心で急かす。
「それより早く診察してくれよ、オレ病院嫌いなんだ」
「ははっ、そうだね。そのほうがきっといいだろう。で、今日はどうしたんだい?」
まるで子ども扱い。それに少しムッとするが、あのあやが尊敬するだけあり、やはり多くの危険な地域を渡り歩いた男だ。
腕は、確かなのだろう。信じるしかない。
「最近、シンくんの目が、突然ぼやけて、階段から落ちたり、物を落としたりするんです」
「アンタが話すなよ!」
「シンくんが話そうとしないからだよ」
「むしろ勝手に盛り上がってたアンタが悪いっての!」
意に介さずいつもの笑顔でさらに続きを話そうとする小毬の口をふさぐシン。
身ながら、微笑むあやの父親。まぁまぁ、とシンをなだめる。
「しかし、それは気になるね。ちょっと検査をしよう」
「はい、お願いします」
「…早く終わらせろよな」
任せてくれ、医師は、そう言って微笑んだ。


 シンの予想に反し、検査は長く続いた。
視力検査から特殊機器を用いた眼球と網膜の検査、体液の検査など。
それこそ、下手な健康診断と同じだけの時間。退屈で、そして苦痛。
疲れ目なんだから、さっさと目薬寄越すなり、寝て治せというなりすればいいのに。
腹立たしく検査結果を待っている間、小毬は病院内のコンビニでお菓子を買って、待合室で食べている。
「シンくんも食べる〜?」
「いい」
「え〜。美味しいのに」
「…」
確かにおいしそうに食べている。彼女ならどんな不味いものやゲテモノでもおいしそうに食べそうだ。
今度ナマコの踊り食いでもさせてみようかなどと邪なことを考えていると。
「飛鳥さん、あとお連れの方、診察室にどうぞ」
「あ、終わったみたいだね〜」
嬉しそうにお菓子の袋を始末し、そしてシンを伴い診察室に向かう。
「ほら、行こう」
「…分かったから引っ張るなよ」
逃げないから。
薬貰って、帰るだけ。ワッフルは忘れたことにして。
小毬は気付いていない。もう、このまま帰ってしまおうなんて考えながら、部屋に吸い込まれていく二人。

 「あぁ、来たね。二人とも」
「先生、早く薬くれ」
「…」
と、あやの父親は、少し間を置いて、告げた。
「シンくん、少し控え室にいてくれないか?」
「な、なんでだよ」
ぼっちにされる謂れはないぞ、と食って掛かろうとするが。
「君の症状は確かに疲れ目だけど、出来たら、お連れさんにはちゃんと君の健康管理についてアドバイスをしたいんだ」
「そんなのいらないよ、第一」
しかし有無は言わせない。彼はシンに促す。
「二人は付き合っているんだろう?」
「いやそれはない」
「ならなおのこと、彼氏の健康管理をしてあげたい、という彼女の気持ちを酌んであげるのが、男じゃないのかい?」
「人の話聞けよ」
どうやら父親のほうもあやに似て、むしろあやがこの男に似たのだろう、話を聞かない。
「だから、席を外して欲しいんだ。君にも後でちゃんと話すよ。だから」
「…分かったよ。控え室に戻る」
とりあえず埒が明かないなら帰れない。やむなくそれを受け入れる。
ならば、と看護士の女性を呼ぶと、シンに付き添わせ、退室させた。

 邪魔の居なくなった診察室で、改めて彼は小毬に向き直る。
「一応あやからも話を聞いているよ、神北さん、だったかな?」
「あやちゃんから?」
どんな紹介をされているのか、と心配になるが、少なくとも悪い評価ではないようだ。
「お菓子の好きな女の子だってね。今度美味しいお店を教えておくれ」
「あ、はい、もちろんですよ〜」
と、そこでペースに乗せられていることに気付き、すぐに頭を横に振って、聞く。
「それより、シンくんの病気は何ですか?」
「…」
ため息。
「出来るだけ、穏便に話したかったんだ」
「シンくんを部屋から出した時点で、疑います。どうなんですか?」
「…そうだね」
長引かせるのは良くない。そう察したのだろう、医師は、眼球断面図と、眼球模型を取り出した。
「これが、シンくんの眼球だ。ここが虹彩。それらの部分を総称して、ぶとう膜という。そして、そこが炎症を起こしている」
「…」
なぁんだ。ただの炎症か。
小毬は安心したように微笑んだ。
「なら、目薬を差していれば、治るんですね」
「…」
「そうだね、それで助かるなら、彼はきっと幸せ者だろう。少なくともこのセカイでは」
この世界では、その言葉が何かしら引っかかる。
ただ彼の言葉から、目薬では治らない、ということは確かだった。
「…そして、症例や、検査結果から彼の疾患が判明した。きっと、これは想像を絶する過酷になると思う。聞いて欲しい」
「…」
重い口は、開かれる。
まるで、死刑判決を告げる判事のように。


 「なぁ小毬、ワッフルはいらないのか?」
バスに乗ろうとする小毬の手を引いて、買い物に行こう、と告げるが、彼女は首を縦に振らなかった。
「…さっき食べ過ぎたから、また今度ね」
「…アンタがそれでいいなら、いいけどさ」
食べる気になれない。もちろん、嫌な気分を払拭するのであれば、食べる道を選んだだろう。
ただ、シンに告げられない苦しみ、秘匿の義務を課せられた彼女に、今ヤケ食いしてまで気を晴らす選択肢はなかった。

『シンくんが冒されている病変…ベーチェット病だ』
『…』

 前に、異国情緒溢れる街を舞台にしたドラマで見たことがある。
ヒロインはある日、写真家の青年に出会う。彼女は最初勝手にシャッターを切っている彼を注意していたが、
次第に彼の撮りたいものに理解を深めていく。だがその青年もまた、このベーチェット病という病気に冒されていて…。
ベーチェット病。視力の突然の喪失以外にも、潰瘍や、後期には神経系統までが冒される、難病。
『医療大国のアメリカですら、この病気の治療例は少ない。そして成功した例もない。文字通り、不治の病だ』
あやの父親ですら、お手上げの病。
そして、彼の顔が曇るのを、小毬は見逃さなかった。
まるで、何か過去に因縁があったかのように。
『…私で治療できるとは思えないが、治療実績のある知り合いを当たってみるよ。もし彼が望むなら、病院を移すといい』
今の彼には、それが精一杯だった、それだけのこと。
ただ、はっきり言えること、それは。
『いずれシンくんは、両目の視力を失うだろう。このまま行くとね。私もそれだけは阻止したい』
『だがもしもそうなった場合、君にシンくんを支えて行くだけの勇気が無いのなら、悪いことは言わない。彼とは距離を置くべきだ』
『!!!』
『そうしないと、お互いが傷ついてしまう。生半可な優しさで救われるほど、光を失う悲しみは小さくないんだ』
目を知り尽くした男は、それだけ告げてシンを呼ぶように促した。
シンにはもちろん、疲れ目だと言っておいた。
バカ正直なシンだから、真に受けて、目薬の投与の時間や薬の時間は小毬に伝えてあると聞くと、もう用はないと
病院から学園に戻る準備に入った。
…一人、あまりに重い現実を叩きつけられた小毬を気にせずに。

 果たして明日目の前の彼が光を失い、悲しみ、慌て、のた打ち回って、泣きながら助けを求める彼を、
自分は救ってやることができるだろうか。彼の目になってやれるだろうか。それだけの心は、あるだろうか。
シンの失明という現実以前に、自分のシンへの想いはその程度だったのかと自己嫌悪する。
誰も、救えはしないのか、と。
幸せスパイラル。ただ、シンが真実を知って、それを受け入れられないとして。
「どうすれば、いいかなぁ」
「…ん?」
シンはバカで、何も気付いていない。
そして、小毬は。
(続く)


あとがき

想像を絶する過酷。
社会的にもまだ認知度が高いわけでもなく、治療法も確立されていない病気。
あたしの知り合いにもこの病気で視力をなくした人が居ます。
ゆえに、この病気を出すことを正直躊躇いました。
だけど、知って欲しい。光を失うことの恐怖。そして、それを支えてやれなかった者の痛み。
半分でもいい、代わりになってやりたかった、だけど叶わなかった胸の苦しみ。

 シンは小毬を巻き込んでしまうのでしょうか。
そして、その重圧に耐えられるのでしょうか。
すべては、プロットを握っている、世界の創造主だけが知っている。そんな話。
時流でした。

【次へ】

【戻る】