いつかは認めなくてはいけない。
生まれてきた理由、これから待つ過酷、そして、向き合う勇気のないことを。
誰かが囁く。もう、無理しなくていいんだよ、と。
だとしてオレは、歩みを止めていいのだろうか。
もう、楽になっていいんだろうか。


第11話『幻想世界 -fantasia-』

 声が聞こえる。
誰の声だろう。ただ、とても懐かしい声だ。
『お兄ちゃん』。
お兄ちゃん?オレは、誰の兄でもないよ、今は。
でも、遥か昔、そう、今よりもっと表情があったころ、オレは確かにお兄ちゃん…兄だった。
『…お兄ちゃん?』
『…』
だけど、その弟か妹か分からない誰かの名前も、オレは覚えていなかった。
心から大事だと思っていたのに。これ以上の大切な人はいなかったのに。
血肉を分けた、兄妹。そして。
『お兄ちゃん、もっと、気持ちよくして…』
『頭が真っ白んなって、飛んでいけそうなの…』
最高の、セックスフレンド。

 思い出した。
オレには妹がいた。
とても変わり者で、その割可愛くて、とても大切な妹が。
血のつながった、実の妹。
一緒に育って、両親がいない寂しさを紛らわすため、よく二人で遊んでいた。
だけど、同じ世代の女の子の割に、ままごとなんかに付き合ったことは無かった。
することはいつも、チェスやトランプ、そんな感じの、陰気な遊び。
そして、喋ることがなくなると、決まってオレが、彼女を押し倒していた。
決まって、夜が近づくたびに。
両親が自宅に帰ることは稀だった。
妹が小さいうちは母さんが帰ってきてくれていた。だけど、オレが大きくなり、その必要がなくなると、
すべてをオレに任せて、母さんは帰ってこなくなった。
本当に仕事をしていたかなんて怪しい。あんなオヤジに愛想を尽かして、どこかに男を作っていたんだろう、
今なら素直にそう思える。だって、その頃母さんはとても綺麗だったから。
仕事に行くとは到底思えない、着飾った衣装と、丁寧な化粧。
大胆な下着、そして子ども二人産んだとは思わせないように、体型維持も欠かしてなかった。
オヤジのために、そんなことをするとは思えない。至極普通に考えて、だ。
だから、帰らないオヤジと母さんを待つより、妹と遊びたかった。
それは、いつしか彼女の身体を『弄ぶ』行動へと変わっていった。
妹は短いスカートを好んで着ていたから、パンツを脱がせるのは簡単だった。
最初は女の大切な部分が、気持ち悪かった。もちろん、未完成でも生殖行為は出来なくもないから、
やはり相応のカタチに出来ているものだ。
だけど、次第にそこを弄ぶうちに、女、というものを実感し始めた。
きっかけは、友達から借りたビデオだった。
その当時の男なら、友達から回ってくるそれに興味を持ち、見るのは当然だ。
だけど、それから更に進むにつれ、実際にその中でしていることを試してみたい、という動物的な本能に囚われる。
実の妹と性的な境界線を越えることは、そう難しくなかった。むしろ、遅かったくらいだ。

 初めて自分のモノを彼女の中に入れたのは、そんな遊びが始まって本当に暫くしてからだ。
痛がる妹を抱き締めながら、励ましながらヤッた。それからだ、オレは兄貴だから、この子を守ってやらないと、って
思い始めたのは。皮肉にも、セックスがそれを教えてくれた。
行為は日に日にエスカレートした。両親不在の自宅を、入れたまま徘徊したり、風呂場やトイレなど、場所を選ばず、
お互いを見つけて意識したらすぐにお互いを慰めあった。
兄貴なのに、という罪悪感と、兄貴だから、という特権を振りかざして。
闇が怖かったんだろう。だから、その闇の中でお互いを見失わないように、求め合っていた。
その時未熟すぎたオレは、彼女を気持ちよくする術なんて知らなかったけれど、回数を重ねるうちにそれも覚えた。
互いの生殖器をぶつけ合う行為が、当たり前になり始め、そして。
二人は、兄妹なのに、まるで夫婦のようだった。
独占欲と、征服欲。その二つが満たされていた、そんな不思議な時間。


 目を覚ますと、そこには小毬がいた。
「シンくん、起きなきゃダメだよ」
「…」
まだピントが合わない。声で小毬だと分かるのに。
シンはもう一度目を閉じて、精神を集中させてから今一度目を開く。
すると今度は確かに、小毬の双眸が自分を見つめていることに気付き、そこでようやく覚醒した。
「…小毬、何してんだよ」
「何って、起こしに来たんだよ〜?ちゃんとお薬の時間と目薬の時間は決まってるんだから」
「…」
だからといって、男子寮にわざわざ入ってまでするほどでもないだろうに。
起き上がり、頭を掻きながら言う。
「時間さえ教えてくれれば自分でやるよ、ガキじゃないんだから」
しかし至極当然のように小毬も反論する。
「ダメだよ。シンくん、言わなきゃ絶対途中でやめちゃうもん」
薬は続けなきゃダメだよ。ただそれだけ言う。
それが、たとえ気休め程度の効果しかない薬だとしても。

 朱鷺戸先生から渡されたのは、ただの疲れ目用の目薬と、そして精神安定剤だった。
もちろん、用法用量の説明はあったが、薬の説明は一切ない。
『これを飲めば疲れが抜けてすぐに治るよ。安心していい』
それだけをシンは信じた。というより薬など正直効けば効能なんてどうでも良かった。
小毬だって同じだ。
シンが自分の病変に気付かないように、ベーチェット病という悪魔に冒されていることに気付かないように。
それだけが達成できるのであれば、今はそれでよかった。
見えなくなったときの対処法や、自分がどうあるべきか、なんて考えるだけ頭が痛くなるし、ムダだ。
ならばせめて、と、何も知らないという演技をすることに決めたのだ。
やがて時間が流れて、彼が本当に失明しても、あるいは、奇跡的に病気の根本的な治療法が見つかって、
彼が助かるという筋道が出来た、としても、演技を続ける。何も知らない、何も知らなかったと。
「でも本当に効くのかな」
「だいじょ〜ぶ、だよ。病院のお薬が効かないわけないよ」
そう言って薬を飲ませながら、思う。
---あぁ、何してるんだろう、わたし。
結局騙して、結末を先延ばししているだけ。いつか、壊れてしまう、バレてしまうのに。
分かっていても、彼に待つ運命の前には、自分は非力なマリオネットでしかない。
だから、これも仕方ないことだ。そう言い聞かせる。
「はい、お水」
「ん…」
ただ、優しくされて嬉しくない人間などいない。シンもまんざらではないらしく、やはり誰かに看病してもらえる、
面倒を見てもらえる安心感というのは何物にも代え難い安息を齎すようだ。
と、そこでシンが何かに気付く。
「っ」
「ふぇ?」
「こ、小毬っ、ちょっと、あっち行っててくれ…」
「なんで〜?」
「なんでって…」
言えない。言える訳がない。
この歳にして、夢精(ヤ)ってしまったなんて。
しかも、妹との情事の夢で。
ただ小毬がそれへの理解をどれだけ持っているか、そしてどれだけ空気が読めるかでシンの結末は変わる。
結果から言うと、小毬は何もわかっていなかった。
「ダメだよ〜。ちゃんと言わなきゃ、何も分からないよ〜」
小毬としては『もしかしたらまたヘンな症状が!!!』と親心ならぬ姉心から心配している。
そんな彼女に正直に言わないでただあっちに行けと言っても聞き入れられる訳がない。
案の定、身体を乗り出して問いただしてくる。
「熱はないの?身体はだるくない?」
「いや、あのだから」
とっさに額同士を重ねあおうとする小毬を回避し、そして。
小毬を、ベッドに押し倒してしまう。
「あ…」
「…」
突然のことで、何が何だか分からないで口をぽっかり開けている小毬。
そんな彼女を気遣おうとして。
「…何か、臭うね」
「へ…あっ」
そのにおいの発生源は、既に布団の外に。
そして、勢いで股間を押さえてしまって。
「あ、も、もしかして、シン、くん?」
「…っ」
言うな、その先は。
恥ずかしそうにそっぽを向くと、小毬がフォローする。
「だ、だいじょ〜ぶ、だよ!シンくんも健康な男の子なんだから!ほ、ほら、コレできっと疲れ目治るよ!お薬効いてるよ!」
今は、小毬の懸命のフォローが痛い。
そして蟹歩きで部屋を出て行く小毬を見送り、我にかえって、自己嫌悪。
「…最低だ、オレって」
直後、お約束の『はずかしざんまい〜』が廊下に木霊する。それを背後に、汚れたパンツを変えるため、脱衣所に向かうシンだった。

 ただ、妹とそんなことをしたという記憶は、正直なかった。
自慢ではないがシンは自分で妹思いだと思っている。だから、妹からすべてを、奪おうなんて思ったことはない。
ではあの夢は?偶然?それとも欲求不満?それとも…。
「アイツのこと、女としてみてたのかな。オレ」
ため息。そして。
「…繭…」
繭(マユ)。それが、妹の名前だった。


 同時刻。成田国際空港。
イタリア製の特注のスーツに、細かく手入れされた同じくイタリア製の黒い革靴。
それが朝の空港に木霊する。
朝一番のフライトで、日本の地を踏んだ男は、サングラスを外す。
視界の先に、何名か目視で確認したからだ。
白衣の、男達を。
「来ヶ谷教授、お待ちしておりました」
「…あぁ。歓迎感謝するよ。長く日本語を聞いていなかったからね。ようやく祖国に帰ってきた、という気分かな」
言葉は優しさも柔らかさもない。それを表すかのように、眼光は鋭く、睨みつけるだけで人が殺せそうな勢いだ。
一人の若手医師が、前に歩み出る。
「く、来ヶ谷教授、お話はかねがね伺っておりました、わ、私は」
差し出す名刺は、来ヶ谷と呼ばれたその男によって叩き落とされる。
「えっ…」
「悪いが青二才に興味が沸かないんだ。文句があるなら私の興味を引くような研究論文でも持ってくるんだな」
それだけ吐き捨てると、真ん中の、より眼光鋭い男に目を向ける。若手医師の名刺を靴で散々踏みにじりながら。
「それで、新たな患者が発生したんだって?」
「…えぇ。我々医学者からも、そして現場の医療スタッフにしても、非常に『喜ばしい』ことです」
喜ばしい。少なくともそこに、その単語が持つ意味以外のものはなかった。
いい金蔓。そして、研究材料。
来ヶ谷もそれに全面同意すると、彼らを伴い、歩き出した。
「まずは娘に会いに行く。クランケに接触するのはその後でもいいだろう?」
「えぇ、問題ありません。あと、未確認情報ですが、どうやらクランケは娘さんが通われている学園の生徒だと」
「ほう。それは面白い。手間が省けそうだ」
男達は、これから旅立つもの、同じように日本に帰ってきたものたちを押しのけ、そして、歩き出す。
…シンにとっての、長い一日が、始まった。


 3時間目の数学の時間。唯湖はいつもどおり中庭にいた。
数学の時間。森が逮捕され、数学をサボる理由がなくなったにしても、やはり高校課程の数学は退屈極まりない。
類稀な頭脳を持つ天才にとって、あえてまで覚える価値のない数式を今更復習しても、ただの時間の無駄だからだ。
「…しかし、一雨来そうだな」
空は、少しばかり曇っている。
いつもの高い空が嘘のように、今日は鈍色の、それでいて不快な湿気の空に変わっていた。
「…」
いつか、シンに初めて出会ったころの、あの雨の日を思い出す。
『雨の日は大切な約束があったはずなのに』。
相変わらず、唯湖にとって、誰かと交わした、大切な約束が見えてこない。
「忘れるべき、なのかもな」
そう言ってコーヒーをすすったときだった。

 「やれやれ。こんなところで油を売っているとは。我が娘ながら情けない。天才気取りも大概にしたほうが身のためだぞ」
「!!!」
驚き、顔を上げると。
「唯湖。久しいな。最後に会ったのが小学6年生のころだったか」
「…厳密には違うな。小学4年生の終わりには貴様はもう私のところにはいなかった」
「父を貴様呼ばわりか。相変わらずの馬鹿娘だな。まぁいい。いつかお前も私に感謝する日が来るだろう」
感謝?
唯湖は、静かな怒りと皮肉を込めて、彼を睨む。
「感謝だと?笑わせるな。私に感情を教えず、仲間を教えなかった貴様が、何を」
「そんなものはまやかしだと教えてきただろう。どうやらお前は相当変わってしまったらしいな。母さんも失望するだろう」
皮肉に直球を投げてくる、そんな男は、来ヶ谷唯湖の父親だった。
「それで、今更私に何の用だ?実の娘を捨てて、向こうで夫婦水入らずの、それは大層幸せに暮らしているらしいじゃないか」
欧州のとある国で医学を教えている父を追って、母もそこに移り住んだのが唯湖がまだ学園に入るかなり前だ。
最初は寂しかった気がしないでもないが、割り切ることを知っていた唯湖にとって、何ら大きな傷にはならなかったのに。
彼の口からは、意外な言葉が出た。
「…母さんとは今度離婚しようと思っている。私の仕事に何かとうるさいのでね。医者の妻なら無駄な感情は捨てろと教え込んでもダメだ」
「下種が…」
赦されるなら、殺してしまいたい。
平気で愛した女を捨てると言い切り、自分の知らないところで自分を不幸にしようとしている、そんな父が憎い。
立ち上がり、懐からナイフを数本取り出す。模造刀は持ち歩けないからと、懐に護身用で忍ばせているのだ。
だがその投げナイフを構える前に、父親の拳が既に目の前にあった。
…唯湖の体術は、何も自己流だけというわけではない。天賦の才という部分もある。
…父親譲りの、体術など、反吐が出るだろうが。
「相変わらずの弱さだな。ここではその腕も立つだろうが、いい加減自覚しろ。犬は所詮犬でしかない」
「…」
かなり緩めた力とはいえ、唯湖にパンチを食らわせ、そして壁に弾き飛ばす。
「さて、ここで油を売っている暇はないのでね。お前も早く校舎に戻れ。私に恥をかかせるな、愚娘」
「…」
声が出ない。
脳ミソがシェイクされるような感覚に陥り、そして。
そのまま、気を失う。
くそっ。呪詛の言葉を吐きながら。
幸いだったのは、直後、唯湖を探しに来た理樹が彼女を見つけ、すぐに助けたことだろうか。
「我が娘ながら、下種に成り下がったものだ。君、出してくれ」
「はい」
黒塗りの車が走り出す。理事長以下教職員もまったく知らないうちに侵入し、そして狼藉を働いて。

 唯湖が倒れていたという情報はたちまちリトルバスターズのメンバーにメールで伝わる。
「まさかあの来ヶ谷を…」
恭介も驚きを隠せない様子で天井を見上げた。
どんなツワモノか、どんな大男か想像は付かなかった。
少なくとも唯湖自身が『いや、不味いキムチにあてられてな、鼻血が出てしまったんだ。はっはっは』と
無理して笑顔を作っていたが、理樹にはわかっていた。
第一キムチでそんな風になるとは思えないし、僅かながら顔にアザがあったから。
「来ヶ谷さん、犯人は誰なの?」
「…何のことだ、少年」
全員が唯湖の無事とダメージがあまりないことを確認して去った後、理樹は唯湖に問いただす。
仲間だから知る権利はある。それくらい。
「…少なくとも私は誰かに倒されたわけではない。考えすぎだ、キミも」
「…嘘だよ。来ヶ谷さんがあんな負け方するわけないじゃないか!」
話してよ、ホントのこと!
その声は唯湖には届かない。
「…キミに話して、キミが仇討ちにでも行ってくれるのか?私でも勝つことの出来なかった、ヤツを殺しに」
「ヤツ?」
「…なんでもない。忘れろ」
「…」
それきり唯湖は、何も話してくれなかった。チャイムが、二人を引き裂く。
「…流弦め」
それが、どうやら誰かの名前であることだけは、確かだった。


 同時刻。
シンは、視界のぼやけと戦っていた。
「…くそっ!」
消しゴムを手にしようとしても、視界がゼロになり、手が滑る。
疲れ目のはずなのに、一向に改善されない状態。
むしろ日に日に状況が悪化している。視界のぼやけは頻度が上がり、視界はさらに悪くなるばかり。
さらには、原因不明の潰瘍が現れていたり、いよいよこれがただごとではない事を鈍感なシンでも悟ってしまう。
「っ」
ついに、椅子から落っこちて、授業中の室内にその音が響き渡る。
「…飛鳥くんっ!」
教壇で彼に優しい、母親のようなまなざしを向けていた香苗が一番にその事態に気付き、そして悲鳴を上げる。
たちまち動揺が広がる教室の中で、シンは何事もなかったかのように立ち上がり。
「…大丈夫。オレは」
大丈夫だから。
ただ、大丈夫じゃないとしたら。
「…小毬」
絶対何か知っている。そして隠している。
疑念は確信へと変わり、シンは小毬を問いただすことを決めた。
鳴り響くチャイムは、それを可能にすることをシンに告げる。
立ち上がり、歩き出す先。
「神北さんに会いに行くの?」
「…アンタ」
香苗が立ちふさがっていた。明らかな、通さない、行かせないという意志。
「ねぇ飛鳥くん。いいえ、シン。あなたが倒れたの、神北さんが振り回すからじゃないの?」
「…」
馴れ馴れしく名前を呼ばれたのが腹立たしかったが、それ以上に。
「小毬を悪く言うなよ」
「いいえ、神北さんとその仲間達に関わってから、あなたの調子がヘンなんだもの」
これ以上は見過ごせない。として行かせないらしい。
「これは担任としての命令よ。今すぐ、あの妙な団体…リトルバスターズを辞めなさい」
「…イヤだ」
「拒否権はないわ。場合によってはあなたを生徒指導の対象にして、謹慎や停学だってさせられるのよ?」
「…」
今ならまだ間に合うから、ね?
その天使のような悪魔の微笑を突き飛ばし、そしてシンは歩き出す。
長い、道のりを。


 小毬に会うことが出来なかったシンは、病院に来た。
小毬が話してくれるわけがないのは先刻承知だったし、なにより。
「…直接問いただしたほうが速いからな」
小毬以上に、あやの父親のほうがヘンな理屈をこねて結末を先延ばしするだろう。
だが本当に疲れ目であるのなら、あるいは、疲れ目でなくても改善できる病なら。
早く、その意味と治療を。
しかし、先ほど教室から出るとき、香苗がまるで親の仇のように憎悪を込めた口調で言った言葉を、忘れなかった。

『---いいわ、精々想像を絶する過酷で身を滅ぼしなさい』
『---私ならそれすら受け入れる力があるのにね、バカな男』

 意味するものは分からなかった。
だが、過酷とするなら、きっとこれはただごとではない。
しかし、どうやら先約が居るようだ。
それは、あやの父親を見つけるや否や、足早に彼に近づいていった。


 その長身痩躯の男は、あやの父親の前で止まる。
「ん、なんだい…っ」
角で見ていたシンにもすぐ分かるぐらいの、朱鷺戸先生の表情の変化。
「これはこれは御機嫌よう、朱鷺戸教授、あ、いや、もう今は教授でもないか、これはすまない、朱鷺戸先生」
「…貴様、今更何の用だ…」
来ヶ谷教授。
その名前に聞き覚えがあった。
「(来ヶ谷ってまさか…あの来ヶ谷のオヤジさん?)」
その可能性を示唆する、唯湖に似た顔立ち、しかし目は絶望的に似ていない。睨みだけで人が殺せそうだ。
そんなニヒルな瞳の男が、朱鷺戸を馴れ馴れしく呼ぶ。
その顛末を見守るシン。
「そんなに邪険にしないでくれたまえ。久々の再会を喜び合おう」
「その気は毛頭ない。貴様とは永遠に会いたくもなかった」
「…フン。アフリカや中東で金もない貧乏人相手に医者気取りのことをして、神経まで可笑しくなったか?」
「…彼らとて人間だ。私はヒポクラテスの誓いから彼らを除外する気はない」
ヒポクラテスの誓い。
自身の能力と判断に従い、患者に利する治療を施し、害と分かっている医療法を用いないこと。
そして、人を殺す薬を投与したり、命を奪う行動を慎めというギリシア時代の医師ヒポクラテスが唱えた宣誓だ。
しかしその宣誓にも来ヶ谷は動じない。
「…ムダに人口を増やすだけ増やして、勝手に飢餓やそれに伴う殺し合いを散々繰り返す連中に、最新医療を投与する意味はあるのか?」
「金にもならないなら、せめて散々に殺し合わせて、残った死体をハゲタカに食われる前に『献体』にすればいい。そうだろう?」
「っ!」
怒りが目に見てとれるが、来ヶ谷はまだまだ続ける。
「医者は金でのみ動く。情で動くから医療事故が起こる。いい加減それに気付かなければこの大病院も終わりだろうな」
「…そうしてあの少女も貴様が死なせた、そうだろう!」
「…あの少女…?あぁ、あの医療献体ね」
「貴様ァッ!」
一気に掴みかかる朱鷺戸。だが、相変わらずその瞳に光のない来ヶ谷。
鼻で笑い、そして見下す。
「おっと、暴力はよくないね。ヒポクラテスの誓いじゃなかったのか?」
「…」
「第一あの少女は勝手に死んだんだ。それを好きなだけ解剖させてもらったが、病変はなかった。とんだ時間の浪費だったよ」
「ふざけるな!」
その豪腕が来ヶ谷を壁に押し付ける。
「あの子は貴様が見殺しにしなければ助かっていたんだ!だが貴様はもがき苦しむ彼女をそのまま放置して絶命させた!」
「それを学会でだいぶ言ってくれたらしいが、だから学会を追われアフリカ送りになったこと、いい加減気付きたまえよ」
「貴様!」
俺は自分の信条に基づいて行ったんだ!
烈火の如き怒りの声が廊下に木霊する。
「医局長にどう言われたかは知らないが、少なくともキミは文字通り追放されたんだよ。烙印を押されてね」
「言っただろう?彼女に病変はなかった。勝手に『ベーチェット病』なんだと言い張って、勝手に神経を病んで勝手に死んだ」
「…」
そして、下賎な笑みを浮かべ、一言。
「そう言えばキミの患者にベーチェットの保有者がいるらしいね」
「!!!」
顔色が一気に変わる。
「どこでそれを!」
「おっとホントだったんだね。これはいい。いや、ぜひ今度こそ完品で死んでもらって、医学発展の献体にしたくてね」
「…だとして、俺がそのクランケの引渡しや紹介を拒否すれば?」
「そしたらキミがそのクランケを見殺しにした、と烙印を押され、今度は豚箱のメシを食らうことになるだろうな」
「…」
どこまでもイヤミな声と言葉。シンも吐き気を催すくらいだ。
大方こんな男が唯湖の父親とは思えない。大体完品で死んでくれ、なんて。
「いいか、ベーチェットは治る可能性の極めて低い難病なのはミジンコ以下の理解力のキミでも分かるだろう?」
「ならより多くのクランケを解剖して、研究するしかないのだよ。後々の医学の発展と、患者救済のためにね」
「…自分の地位と名誉の向上のため、と正直に言ったらどうだ、来ヶ谷!」
「滅多なことは言うもんじゃないぞ。医者の肩書きを失いたくはあるまい?娘さんも不幸になるだけだしな」
「…」
勝ち誇った顔の彼は、そのまままた歩き出す。去り際、今一度釘を刺しえて。
「…あと全ての人間をキミの味方だと勘違いしないことだ、朱鷺戸。キミ程度の医者なら代わりはいくらでもいる」
「…白い巨塔の中で起きていることなんて、患者には分からんよ。下らん情で医学をするから、医療事故が起こるんだ」
「…」
「まぁいい。近々『献体』の引取りにでもくるよ。また会おう、朱鷺戸教授」
「…あの世でも会いたくはないがな、来ヶ谷教授」
鼻であしらう来ヶ谷の背中を見送った直後、朱鷺戸が、その豪腕で壁に大穴を開けた。
「クソ…っ!」
何も言い返せなかった、己の弱さ。
自分の医療、救命にかける思いを『追放』だと言い切られたこと、あの日の医局長の言葉が嘘であるという裏切り。
その中で認めたくない現実を叩きつけられ、朱鷺戸は、悔しくて何度も壁を殴打した。
「…アンタ、手が泣いてるぜ」
「…シン君か、これは困ったなぁ、大人気ないところを見せてしまったね」
止めに来たシン。彼を見るや、その憎悪にまみれた鬼の形相をいつもの仏のようなそれに戻す。
「…さっきのやりとり、全部聞いたよ」
「…そ、そうか。感心しないが、まぁいいよ。それで、薬は効いてるかい?」
「…騙されないぞ。ホントのこと言えよ。オレの病気」
「…だから疲れ目だと言っただろう?医者は信じたほうがいいぞ」
「嘘だっ!」
詰め寄る。しかし朱鷺戸は動じない。
「薬が効かないなら、より強めの薬を出すよ。なぁに、すぐ治るさ」
「オレは信じない!教えてくれよ!」
「…」

---先生、あたし信じない!ホントのこと教えてよ!
---あたし、目が見えなくなるんでしょ?ねぇ、死ぬんでしょ?
---いいや、死なないよ。『香苗』くんは必ず私が治して見せるから。安心してくれ。

 いつかの、亡くなった少女が言っていた。
彼女も存命だったなら、きっと、今頃20代半ばくらい。夢を叶えて、好きな人と結ばれて、幸せにしていただろう。
そう言えば、彼女は将来学校の先生になりたいと言っていた。
だが皮肉にも当時の医療水準ではベーチェット病の治療は愚か遅延すらもままならなかった時代。
当時大学病院で眼科医だった俺にとって、もっとも忘れえぬ患者だ。
しかし、彼女もまたベーチェット病の末期症状たる特殊ベーチェットを発症し、そして。
そこから来る心病変、肺病変を併発してしまい…。
『来ヶ谷!お前しか頼れないんだ!彼女を、香苗くんを!』
『…残念だが諦めよう。私では手を下せない。医局長の指示なんだ』
『来ヶ谷っ!』
『…じきに新しい時代が到来し、あの子に次ぐ患者が撲滅できるかもしれない。彼女に医学の未来を託す』
『貴様っ!何を言っているのか分かっているのか!?クランケを見殺しにすることが許されるわけがないだろう!』
そうして彼女は絶命し、その穢れを知らない清い身体は、医学の発展のための献体となった。
そして俺は、それを追及するため医局を敵に回してまで戦った。
許せなかったんだ。娘のように可愛がった、愛情を注いだ彼女を、一晩で殺したあの医局長が。
だが結論として俺は大学病院も、学会も追われた。そして、ただ手元には、アフリカ行きのチケット。
『このままじゃ娘さん抱えて路頭に迷うだけだ。なら、今は涙を呑んで我慢しよう。俺も、力を貸すから』
あの時、同じように苦渋の選択を迫られた来ヶ谷から託されたのは、そのチケット。
だが、来ヶ谷もすっかり変わってしまった。あの医局長の忠実なイヌにでも成り下がったのだろう。
同じように娘を持つ医者として、互いを尊敬しあっていたはずなのに。
「シン君。騙すつもりはなかったんだ。ただ、私は許せなかったんだ」
「何が」
「また、同じように苦しむと分かっている人間に、平気で過酷な現実を告げることが」
「どうせなら、何も知らず平和に暮らして、そして何も知らず光を失うことが幸せなんだ、と思っていた。医者失格だな、私は」
「…」
そして、今一度シンを見つめ。
「話すよ、全てを。そして、もう一度私を信じてくれるのなら、任せて欲しいんだ。必ず、約束するよ。君の目から光を奪わせはしない」
そしてシンは知る。自らが置かれた立場、そして、現実を。


 あたしの生命維持は、もうそう長くは続けられない。
だけど同じように出逢った、彼に恋をした。
許されるなら。もう一度。
あたしの精神は、彼を求めて歩き出す。
悲しい、恋の結末へ。
(つづく)


あとがき。
お医者さんが嫌いってわけじゃないんだけどね。
さて、来ヶ谷さんのお父さんを勝手に作って勝手に出場させました。
流弦ってのが名前になるのかな。元ネタはBLEACHの石田くんのお父さん、『竜弦』より。
もっとも来ヶ谷さんちのお父さんは、石田くんちのお父さんと違ってツンデレじゃないようですが。
ただ誤解しないで下さい。今でこそこんな風になっていますが、本当はもっと熱いものを持った人だったと。
…このために第10話を若干改変します。まぁ、悪く思わないでください。

…そして、次回、いよいよ小毬とシンが…。
ご期待ください。生温かく。時流でした。

【次へ】

【戻る】