肺いっぱいに吸い込むのは、さくらんぼの味の空気。
空いっぱいに見えるのは、うっすらと桃色の花びら。
絶対に、見ることがないと思っていた、こんな穏やかな季節。
そして、今では感じられる。歯車が、確かに動き出していること。
前のように狂うことなく、よく潤滑油を塗られた歯車の、柔らかい音色の中で。


第12話『桜 -Cherry Blossam-』

 『話すよ。すべてを』
語られた全ての言葉たち。
シンは、その時実感がわかなかった。なぜ自分が、なぜ自分の目が。
しかし誰にも当たることは出来ないし、誰かが、また時間が解決してくれるとは思わなかった。
受け入れられず、かといって根本的な治療法が確立されているわけでもない。
朱鷺戸は一言一言を選びながら教えてくれた。失明するかもしれない。だがしないかもしれない。
世界中で研究が続いているから、必ずそれが何とかなる日が来る。
間に合わないかもしれないが、必ず、目が見えるようにしてみせる。
無論シンは信じなかった。一度は自分を欺いた医者なのだから。
そう思うと本当は自分がベーチェット病なんていうのも相当に頭を凝らしたネタなのかもしれない。
…エイプリルフールには早いし、仮にエイプリルフールでもそんな不謹慎なことを言うようなら医者失格だが。
「どうすればいいんだろうな」
病院から出て、今一度忌々しそうに白い巨塔を見据える。
「…」
来ヶ谷が言った、医療献体の話。
そして、自分が完品で死ぬことを望んでいるような素振りと言動。
負けたくない。今はそれだけ。
それくらい思っていないとあまりの重圧に押しつぶされそうで。
「シンくん」
「…」
そして、前を向くと。
「勝手に外出しちゃダメだよ〜?」
もう一人、シンを欺いたモノ。
「小毬」
「うん〜。ほら、早く帰ろうよ。寒くなる前に。そろそろコタツ出そうかなぁ」
「…」
思案顔でシンに手を差し出す。掴んだ瞬間歩き出すようだ。
「…」
だがその手は握られることはない。不審に思い、小毬が振り返る。
「…ねぇシンくん。わたし、寒いから早くバスに乗りたいな」
「…いやだ」
「今日はいつもより聞き分けがないね、シンくん」
「…」
誰のせいだ!
出来るだけその衝動を抑えていたかった。傷つけても、解決などしないのだから。
だが小毬はその気持ちをまったく酌もうとはしてくれない。差し出される手。
「ちゃんとお薬の時間もあるんだし、ね?」
「…」
それは、もう意味を成さないと彼女も気付いているのだろう。
表情には、少しずつ焦りが見え始めていた。
シンの無表情さに、ひょっとして朱鷺戸先生に何かを聞きに言ったのではないか、と不安そうな顔をする。
「…効かないんだってさ、疲れ目の薬」
「!!!」
小毬もそこでようやくにしてシンが全てを悟ったのだと気付く。
だがあくまでも冷静に、心の奥底を悟られないように、シンに触れようとする。
「だいじょ〜ぶ、だよ。病院のお薬が効かないわけないよ。絶対、元気な目に戻るよ」
「っ」
バシッ。
手は弾かれる。そして、明らかに殺意の篭った目が、小毬に向けられる。
「いい加減なこと言うなよ…オレは全部聞いてきたんだ、俺がどういう状況なのか」
「…うん。ただの疲れ目、って言われたでしょ?」
「嘘だッ!」
力の差は歴然。小毬の胸倉を掴むシン。傍から見れば一方的な暴力。
通行人も止めようとするが、それがただ事ではないように思えるのか、近寄ろうとしない。
シンが、続ける。
「ベーチェット病なんだってな。何が疲れ目だよ!見えなくなるまで放っておいて、見えなくなったら知らん振りか!?」
「…」
「そんで私は何も知りませんでした。だから悪くありません、さようならってか!いいよな、他人事で!そりゃお幸せなことで!」
「っ」
あまりの気迫、語気の強さ。
小毬は心を見透かされているような気持ち悪さに囚われる。
シンの言うとおり、何も知らないフリをして生きようとした自分の、愚かしさを悔やみながら。
「最初からそのつもりなら、もうオレに構うなよ!いっそここで俺を見捨ててさっさとコンビニたちの所に帰れよ!」
「…」
「今更独りは怖くないね!何かを失うことも、裏切られることも!」
「…」
ただ唇をかみ締めるしか出来なかった。
一瞬でも裏切ったことによる代償だと、言い聞かせて。
そして粗方言い終わったところで、シンの視界がゆがみ、そして。
「…っ」
倒れる。
それを無意識に受け止める小毬。胸が、エアバッグになる。
「…」
「……なせよ…」
「…」
「離せよッ!」
どんっ。
突き飛ばされる。しかし小毬はそれでも彼を抱き締める。
「離せ!」
「…」
「離せったら!」
「…ヤダよ。ここで離して、シンくんは、どうするつもり、なのかな?」
「オレは」
独りでも十分だ!
だが小毬は決して離さなかった。その胸を更に押し当てて抱き締める。
「離したら、シンくん、本当に独りぼっちだよ?独りは、さみしいよ?」
「うるさいっ!」
抗う子犬。しかし、思ったより力が入らない。
それは、小毬が放つ芳香にアテられているせいなのだろうか。それとも単に病変なのか。
 やがて、曇り空が泣き出した。
秋の雨は冷たく、二人の肌を刺す。
「…帰れよ」
「…」
ふるふる。
小毬は絶対に首を縦に振らなかったし、振らないことはシンも分かっていた。
だから今一度強く促す。有無を言わさぬ声で。
「帰れよ」
「…」
背を見せない。
抱き締める力がふと弱くなり、そして。
「治すよ。わたしが」
「…はぁ?」
「治すよ。絶対。わたしの目をあげてもいい。だから、治すよ、絶対」
「何言って…」
刹那。
小毬が、自分の眼球を抉り取ろうと指を突き立てる瞬間が網膜に飛び込んでくる。
目に光がなく、まるでそれをすればシンが助かると本気で思っているかのように。
彼はとっさに小毬を止める。抱き締め、そして。
「バカ…アンタ、ホントにバカだよ…なんで、何でオレなんかの為に!」
もうじき光を失うかもしれない人間のために!
問いかけはまるで絶叫。小毬は動じない。
「それでも、救えるなら救いたいよ。もう、目の前で何かを失うのはイヤだから」
「オレが幸せでも、アンタが不幸になったら意味がないじゃないか!オレは共倒れなんてゴメンだ!」
もしそれで眼が回復しても、小毬が光を失う。ならば、何も意味はない。
「いいよ。一度は死んだ身体だから。生きていることが奇跡、だから」
いつかのバス事故を指しているのだろう。
確かに一度は死んだ。そして遺体も残らず粉々になるはずだったのに。
生きている。謳歌できている。
だからこそ小毬は許せなかったのだ。そんな幸せな自分の目の前で、光を失くそうとしている人を欺いて、
それでも笑顔を保っていようとした自分が。そんな自分の目は、いらない。
それだけの理由で、小毬は動いていた。
その罪を拭うことの出来る唯一の人間、シンは。

 唇を、重ねた。
今度は突発的なものじゃない。今一度、自分が存在していることを確かめるためのキス。
小毬を引き止めるためじゃない。小毬とここに居る自分を、確認するための、唇。
「シン…くん…」
「一人で勝手なこと言うなよ…!小毬が諦めるなら、オレも諦める。光なんかいらない」
「…」
「でも小毬がオレのそばにいてくれるなら、もう一度信じる。オレを、オレ自身を」

---キミは果たして、今の自分をどれだけ信じられるかな?
あの日の唯湖の言葉に対する答え。
今の自分も、過去の自分も、全部未来の自分に繋がっている。
だから、信じてやりたい。未来の自分に繋がる、今の自分自身を。
失われる光があるなら、それも受け入れよう。
だけど万が一奇跡が起こるとしたら、もう一度、信じてみよう。偽りのない、自分自身を。

 「小毬、きっとオレ、小毬のことが好きなんだと思う。何だかんだで、きっと」
「…うん。わたしも、シンくんが好き。これ以上、ないくらい好き」
この気持ちがいつまで続くか分からない。だけど、いつまでも、そう思い続けたい。
誓いは、確かな力になる。それを証明するように、雨は、確かに上がっていた。
虹が掛かることはなくても、その空から差し込む一筋の光は、シンの僅かな希望の現れのように思えた。


 「桜が見たい」
「ふぇ?」
そんなある日の屋上。シンは購買のパンを齧りながら、何となく口にした。
桜が、見たくなったのだ。
もちろん、理由なんてない。何となく、ただ何となく。
「でも、桜なんて咲いてないよ?」
「…分かってるよ」
桜。それは春の代名詞。今の桜はコスモス(秋桜)なのだろう。だがシンはあくまで春桜、ソメイヨシノが
見たいというのだ。こればかりは小毬も困り果てる。
「ん〜。でも、ほら、コスモスとか」
「桜。桜がいい」
「…シンくん、わたしを困らせようとしてる?」
「…そんなことはないよ」
それだけ言って、たくさんのお菓子の山からポッキーを取り、咥える。
「…」
「…ん?」
物欲しそうに、シンの口のポッキーを見つめる小毬。
それがどんな意味か、シンもそれとなく分かっていた。
「…ん」
「ん〜っ…ぱくっ」
シンが差し出した反対側を咥え、そして。
やがて、触れる唇。
「…んっ。ポッキー味」
「…小毬」
どこまでも愛らしい、年上の彼女。
たまにその容姿から想像もつかないような行動力に驚かされる。
だけど本当に普段はドジで、間抜け。
自爆も多いけど、愛しい人。
ふと、小毬の口元にアプリコットジャムを見つける。
舌を出し、舐め取る。
「…」
「ん…小毬味」
「シンくん…」
負けじと、シンの口の中に舌を入れ、やがて、それは濃厚なキスに変わる。
「んちゅっ…んむぅっ…」
「んっ…ん…」
「んふぁぁっ…シンくん味」
「小毬…」
そして自分がやったことに気付いて顔を真っ赤にしてのた打ち回る小毬。やっぱり自爆している。
昨日の雨が嘘のような空を見上げながら。ふと思う。
『見えなくなってもいい。彼女と、こんな日々を、これからも過ごしたい』
たとえそれが小毬にとって重荷でしかないとしても。

 そんな恥ずかし三昧な昼休みが終わり、教室に戻る小毬。
「桜、かぁ…」
小毬なりに考えていた。シンが見たいという桜。それをどう叶えるか。
「…打開策がないよぉ」
もとい。2秒で撃沈。
こればかりは仕方がない。小毬のせいではない。季節のせいだ。
季節的に桜が咲くことは考えにくいものだ。
昨今、地球温暖化の影響で台風が頻発し、葉っぱが全部散って、春と勘違いした桜の木が花を咲かせる、
俗に言う『バカ桜』という現象が起こることもあるが、それは漏れなく暖かい地域特有だし、今年は珍しく台風が少なく、
その桜が拝める様子はない。案の定、校庭の桜の木は、少しずつ裸になり始めていた。
「ふむ。桜の木を遠目に見ながらアンニュイでメランコリーな神北女史か。これはこれでアリだな」
「ゆいちゃん?もういいの?」
「だからゆいちゃんは辞めろと…まぁいい。もう大丈夫だ」
颯爽と登場した姉御こと来ヶ谷唯湖にも一切動じることがない。それくらい真剣に悩んでいた。
「まぁ、私でよければ相談に乗ろう。面白いことならおねーさん大歓迎だ」
「面白いかは…分からないよ」
桜が、咲けばいいのに。
咲かせられないよね。
諦めながら、唯湖に向き直る。
「ゆいちゃんなら、桜、咲かせられる?」
「…ふむ。昨今のギャルゲでは桜を見たいと言った失明寸前の妹のために、制服のスカーフを切って桜吹雪を作る例があったな」
まぁうちの制服ではそれは叶わぬ夢さ。至極冷静に言う。
「…だよね。どうしたらいいかな」
「…桜を見たいと、シン君あたりが言ったのかね?」
「…」
ゆいちゃん、お見通しなんだね。
ため息と同時に、吐露する。
「無理だとは分かってるんだよ。だけど、何でかな。見せてあげたいんだ」
「…事情は深く聞かない。下らん奴の顔を思い出しそうだからな」
「ふぇ?」
「…なんでもない」
唯湖の眼が一瞬変わったように感じたが、気のせいだと整理する。
「…そう言えば、枯れない桜が咲いている島というのを聞いたことがあるな」
「えっ?」
そんなのがあるわけ。
ないと思ったら、唯湖は既に教室の前のほうの女子生徒…杉並睦美の所にいた。
「時に、杉並女史」
「…っ!来ヶ谷、さん」
何かいわくがあるのだろうか。一瞬ビクッとする杉並。だが唯湖は一切気にせず続ける。
「確かキミの親族だか何かに、絶対に桜が枯れない島の出身者がいたと思うのだが」
「…あぁ、あそこですね」
「うむ。あそこだ」
「…秀島さんが最近まで住んでいたから、きっと私より詳しいと思います。」
「うむ。ご協力感謝する。素直な子はおねーさん大好きだぞ」
「…」
何故か赤面する杉並を放置すると、次はその2席横の女子生徒…秀島に近づく。
「時に、秀島女史。ちょっと聞きたいんだが」
「あぁ、『初音島』のことでしょ?いいよ。何が知りたいの?」

 どうやらその島は、初音島、というらしい。
年中桜が枯れない島。東京から直通のフェリーが出ていて、かなり行きやすい環境ではあるらしい。
「ふむ。なるほどな。ご協力感謝する」
「あら、あたしは好きになってくれないのかな?来ヶ谷のおねーさん?」
「うむ。勿論素直な子は大好きさ。ただ乱発したらレア度が下がってしまうだろう?」
「賢明なご判断で。それじゃ、また何かあったら聞いてね」
非常に好意的な秀島に頷くと、唯湖は再び小毬の前に。
「ということだ」
ぴっ。差し出される紙。
初音島についての情報がびっしり書かれている。
「いつの間にメモしたの?」
「はっはっは。まぁなに、おねーさんのテクってヤツさ」
「…」
素直に凄いと思いながら、もしもその話が本当なら、と考える。
「シンくん、喜んでくれるかな?」
「やはりシン少年絡みか。おおかたそうだと思っていたがな」
「…」
恋する乙女か。私には分からないが。
それだけ言うと、紙を置いて自分の席に戻っていった。
「…」
---シンくん、その桜がニセモノでも、私のために、笑ってくれるかな?
放課後、調べ物の名目でパソコン室に入った小毬は、さらに詳しく初音島へのアクセスを調べ始める。
「…」
必ず見せる。
やがてその情報が全部揃ったとき。
「シンくん。桜、見に行こう?」
「…はぁ?」
確かにこんなリアクションになるだろう。
ついに気が狂ったか、いや元々か。シンが首を横に振る。
「シンくんひどいよ〜」
「…第一、桜なんて」
咲いてるわけがないじゃないか。アンタを困らせたかっただけだよ。
素直じゃないシンの目の前に出されるのは。
チケットだ。
初音島行きの往復チケット。
「寮長にお願いして手配してもらったの。ここなら、シンくんの願いも叶うよ」
「…」
チケットに書いてあるマークを見る限り、それは桜。
「まさか…」
「永遠に枯れることのない桜があるとしたら、わたしを、信じてくれる?」
「…」
あるわけ。
そう言いかかってやめた。一回だけ頷く。
その反応を見て、小毬は続きを告げる。
「作戦決行は土曜日だよ?今のうちに準備しておいてね」
「…準備」
「うん。お泊り」
「…はぁ?」
「お泊り」
「止まりって、一時停止か?」
「違うよ〜」
突然のことで混乱のシン。そして言って恥ずかしくなる小毬。
決行日は、2日後。
桜は、待っていてくれる。
でも、シンの病変は、待ってはくれないから。
---この眼で見る最後の桜かもしれないからな。
もうすっかり恒例となったポッキーゲームをしながら、そんなことを考えてみるシンだった。
(つづく)


あとがき

さて、次回から初音島に舞台を移します。
D.C.Uの世界観を反映しながら、物語は展開します。
初音島の住人達との出会い、交流。絶対に枯れない桜の伝説。
その伝説の大樹の下でシンを待っているのは、どんな女の子なんだろう。
そしてそして、杉並さんの従兄弟という設定で杉並君が出てくる…かもしれないよ?
初音島編はそれなりに回数分けてやろうか、それともある程度簡略化するか。
それは、書いてUPしてのウケ次第、ってところで、相坂でした。

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